の、はずが、続きました。
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新しいものごとが海外から入ってくるだけなら、誰も拒否しない。
が、それが支配的になり、しかも強引となれば話は別だ。
そうした秋津人の排他性は、いたるところに現れている。
例えば。
余談となるが、日本の清涼飲料勢力図は、その象徴だ。
まず、総売り上げの四割弱をしめ、文句なしに清涼飲料業界の筆頭をつっぱしる住吉御師水取組合。
もちろん、その大半は平野飴(炭酸冷やし飴)が稼ぎだしている。
つぎに、南方で絶大な人気をほこる東都檳榔惣講。
東都檳榔香草水(ビンロウルートビア)を主力としている。
そして三番手に、ある意味で今回の主役が登場する。
松原調薬同志会。
筆者も愛飲している、「黒松がらな」の製造所である。
黒松がらなは、日本で唯一、全国で見られるガラナ水だ。
ガラナは瓜拿とも書き、安地(アンデス)の山麓から熱帯雨林で自生する植物である。地元住民は種の皮をむいて粉にし、湯にといて飲む習慣がある。
これが商品になったのは百年ほど前、日本では五十年前に爆発的に広まった。
その原因は、皮肉なことに古柯口楽(コカコーラ)だったのだが。
古柯社をはじめ、第二次世界大戦によって“正義の武器庫”を自任した風炉美州蘭土の企業公司は、先をあらそって前線となった各国に販路をひらいた。
そして戦争が終わると、今度は古柯口楽と競合していた解卵口楽(ペプシコーラ)が新しく参入し、日本の清涼飲料水は彼ら二社と平野飴の三つどもえになりつつあった。
そこまできて、日本の水売りたちが危機感をもった。
かれらは自分たちの存続をかけ、調薬同志会をつくる。
この集まりに“松原”と名づけたのは、事業が大きく育つようにと縁起をかついだこともあるが、汚染や塩害につよい黒松が摂海の岸に植えられ、“住吉の松原”として有名だったという理由が大きい。
つまり、同志会はなによりも
“海外からの汚染(侵入)”をふせぎ、“住吉(平野飴)を守る”
ための会だったのだ。
同志会は口楽に対抗できる飲みものの情報を集め、伯剌西爾(ブラジル)でのみ人気が高いガラナ水に目をつける。
結論が出るのは早かった。
かれらは泰東洋をはるばる渡って原料を買い、日本で売りだした。
そして、五年後。
古柯口楽は、みごとに黒松がらなの後塵を拝するに至ったのである。
さらに、その頃になると戦中からの“風炉美州化”に対する反動で、比較的歴史のある飲みものが好まれるようになっていた。
本場の東都から全国へとひろがる檳榔の波と重なるようにして、秋津から南方へ拡散していった黒松がらなは、風炉美州と日本の関係が悪化するにつれてますます売り上げを伸ばし、古柯社のみならず解卵組にも
「一割の壁」
と言わしめる、長い”口楽の冬”を生んだのだった。
それてしまった話を、元に戻すと。
結局のところ、血の池地獄の変とは、そうしたものであった。
別府の地獄は、現代でもその名前だけで値打ちがある。
今より娯楽が少なかった安土大坂時代となれば、当然のことだ。
そして、温泉地は観光地だが、療養地でもある。
さらに、竜造寺氏が家内建てなおしに奔走し、老いてなお猛き“治天”信長の御来寇によって田畑がぼろぼろになった島津氏が検地に泣いている当時、大友家領はいたって平和であった。
つまり、あくまで日本的な発想で考えれば、あいつぐ同僚の戦死により大友双璧の片方となってしまった戸次あらため立花道雪が
「湯治に行きたい」
と言い出しても、それなりの説得力があったのだ。
もうひとりの双璧だった高橋紹運からみても、道雪はもう父ほどの年齢だったし、隠居してなお伴天連とつるんで藩を動かしつづける大友義鎮とは、みごとに関係が断絶していた。
さらに、心配種だった主家のあとつぎ義統も(少なくとも内政家としては)実力をつけてきており、療養するなら今しかないという空気もあった。
なぜ療養が必要かといえば、言うまでもない。
はるか昔、雷に打たれて動かなくなった彼の下半身は、老いとともに上へ上へとその麻痺を侵食させていたのである。
ともあれ、事情を知っていれば
「“雷神”道雪も老いたか」
ということになる。
長老たちの戦死で急増した若い武将たちは彼のようになろうと発奮し、仇敵たちは国内事情のせいで大友を攻められない自分たちを恨み、年明けまではそれ以上のことにならないはずだったのだ。
ところが、苛罵留については、その限りでなかった。
先述したように、このころの豊後は国論が割れていた。
切支丹とそれ以外のふたつに、である。
義鎮のおかげで秋津第一の天主教地帯となった豊後だが、これを快く思わないものもいた。
正確には、そうしたものの方が多かった。
今から見れば、これは当然のことだ。
上様(前藩主義鎮)の権威をかさにきて所かまわずふんぞり返り、仏僧とみればどなりあげ女とみれば悪態をつき、意味のとおらない雑言をわめくだけわめいて勝ち誇り、あげくのはてに寺を焼き土地を奪って南蛮寺(天主堂)を建てる。
古く強盗のことを濫妨というが、彼らはまさに“濫妨者”だった。
最初から、こうだったわけではない。
沙備依留が音頭をとっていた最初の布教では、耶蘇会士は礼儀正しく、下々にも分けへだてのない清廉の士として通っていた。
秋津人差別はあったが、伴天連が率先して人買いにはなっていない。
つまり、苛罵留時代はそうなっていたのだが。
幸い、苛罵留と彼の部下たちの勢力圏は九州一円にとどまっている。
本州は、京地区布教長の宇留岸が仕切っていた。
だが、縄張りが広くても権力はかぎられている宇留岸が、日本でもっとも高位の苛罵留を止めることはできない。結果として、豊後は苛罵留や義鎮ひきいる切支丹と、義統ほか大友家中が主導するそれ以外に割れてしまった。
いちおう洗礼は受けた義統が“それ以外”の旗頭になったのは、自分が当主になったはずなのに天主狂いの隠居が領地の運営をじゃましてばかりいる、という実際的な理由があったが、八幡神を信じていた母の奈多夫人が、父や伴天連に迫害されて急逝したこともあると言われている。
なお問題なのが、豊後以外の九州についてだった。
大友氏とともに切支丹として名高い大村氏は、長崎を耶蘇会に寄進していた。
ところが天下統一により、長崎は織田の直轄領とされる。ひさびさに長崎へやってきた博多商人たちは、それまで長崎で弾圧されていた仏教徒たちから、耶蘇会や南蛮人の領土的野心について詳しく聞くことになった。
結果、九州沿岸の町では
「天主教は、南蛮人が日ノ本をのっとるために作った秘密結社」
という流言が常識のように広まり(他の泰東諸地域について考えれば、あながち間違っていないのだが)、各地の切支丹は寺社だけでなく近所の人々からも、強烈な反感を買うことになった。
ちなみに噂は堺に伝わり、切支丹大名たちが衝撃を受けていた。
さらに、血の池地獄の変を知った代官の織田信忠がここぞとばかりに父親へ送りつけた讒訴に書かれていた南蛮貿易商の人買い疑団をめぐり、一連の権力闘争がはじまる。
次の夏にあいついで出された「両天主教令」は、その産物といえよう。
まあ、そうした未来の話はさておくとして、九州の教勢縮小という大失敗を招いたのは、ほかでもない苛罵留など差別論者である。
彼を黙認した天川(マカオ)の司教座も、同罪と言えるが。
だが、そうとは知らない苛罵留は、反切勢力のなかでも高い地位をしめる道雪が豊府からいなくなることを喜び、ついでに日本人の密偵がよこした報告に仰天していた。
特に、
『地獄へ全浸浴に向かう』
という、簡潔きわまる一文に。
結末から言うと、苛罵留は血の池地獄を見なかった。
見ない方がよかっただろう。
ここでいう血の池地獄とは、文字通りの意味だったのだから。
そう。
血の池地獄の変は、たしかに別府の地獄で起きた。
しかし、いわゆる名勝「血の池地獄」で起きた事件ではなく、温泉が血に染まった様子を血の池と称したに過ぎないのである。
とはいえ、その正確な経緯は、よくわかっていない。
なにしろ、陣営ごとに記録を残してはいるものの、内容が食い違うどころか正反対になっているのだ。
悪いのも敵方、原因も敵方、会話の攻守まで真逆だ。
ここまでくると片方が他方を模倣したとしか思えず、大秦に資料があることを考えると耶蘇会側が先に記録したと考えられる。
だが、耶蘇会の記録もうのみにはできない。
そもそも耶蘇会の記述が事実に即していたのか、という疑問が出てくる。そして、苛罵留の支配下にあった当時の九州耶蘇会で、その可能性はきわめて低い。
耶蘇会の資料は、当時の秋津風俗をこまかく描写している点では重要なのだが、善悪判断などがつきまとう案件になると史料的価値を一気に失う。
いつも天主側(そして白人側)に偏った視点だからだ。
天主教の修道会としては褒めるべき立ち位置だが、史家には迷惑でしかない。
ただ、ともあれ
「立花道雪に無礼をはたらいた伴天連たちが、彼をさらなる危険にさらしたため、道雪の部下たちが伴天連たちを温泉に放りこんだ」
という程度なら、二次資料で明らかになっている。
もちろん、耶蘇会側の記録ではそうならない。
地獄に行って帰ってくるという宣言は、道雪が生きながら地獄に堕ち、さらにまた復活できることを示しており、それはもはや人間業ではない。
そして彼が切支丹でない以上、道雪は悪魔なのだ。
つまり、彼の滅却を命じた苛罵留には、なんら落ち度はないということになる。
彼の意をうけて別府温泉に乗りこんだ伴天連たちは、おそらく彼の正しさを確信したことだろう。
別府八湯には、一般に言われる温泉とは違うものが多い。
それこそ沸騰寸前の熱湯がわく泉などざらで、蒸気だけが岩をめぐるもの、熱をもった泥が吹きでるもの、そして名高い“赤湯の泉”など、日本広しといえども別府以外ではそうそうお目にかかれない温泉が大量にあるのだ。
もちろんそれらの泉で入浴するわけではないが、だからといって奇異に映らないわけがない。
さらに、伴天連たちは“温泉”を見たことがなかった。
湯が出る泉を見たことがないわけではない。
だが、そういった泉はおおむね薬湯、あるいは飲用の鉱泉として使われたことしかなかった。
何の薬効もないのに、湯につかるという発想がない。
大友領の観光地として名を知られていた別府の地獄だが、伴天連たちから見れば文字通り、地獄の一部がこの世に現れているとしか思えなかった。
そんな場所で、異教徒たちが湯につかっている。
許せるわけがない。
とはいえ、血の池地獄の変についてもっとも興味深い記録は、やはり耶蘇会のものだ。
いわゆる『佛洛意主日本史』には、次のような記述がある。
「ガスパール・コエリョ師は、この世の地獄に帰り今まさにくつろがんとしているトールとその手下たちに、その熱泉にからだを浸せば最早人ではないので、一刻も早く良心をとりもどし府内に戻るよう伝えた。
しかしすでに奥の泉では、人々が自分の思うように湯に浸かっていた。トールの手下たちは、土民が行っていることを自分らが行っていけないはずはないと考えているので、いっせいに反発した。
そのため、コエリョ師は彼らに、火と硫黄の池に自らを投げいれることはサタンでも行わなかった暴挙で、デウスの御恩を捨てることにつながることを、大いなる愛情をもって説いた。
彼らはサタンが何者かについてまったく無知であり、コエリョ師と数人の修道士がかわるがわる説明した(その間に、手下たちを見捨てたトールは自分の輿を下人に担がせ、熱泉へと向かっていた)。
しかし教えをうけた彼らは大きく口をあけて笑い、「お前たちと違って、われわれは神がいる場所を知っている。それはすぐそばにある」と言った。
コエリョ師と一行は、彼らに御教えを説くよりもトールを屈服させるべきと思っていたので、彼らを押しのけてトールの輿を追いかけた。
すると手下たちがコエリョ師にせまり、トールよりも彼らの神に会えばいいのだ、とはやしたてた。
コエリョ師がその場所を訊ねると、トールの手下たちは笑いながらコエリョ師をかつぎあげ、近くにあった熱泉に投げつけた。
(中略)
これらの非道なふるまいにも、コエリョ師は神の試練と愛を感じられた。しかし師は、このときトールの手下たちも神仏がサタンだと理解していたことに気づかれて、それなのになぜ愚行をくりかえすのか、大いに嘆かれた。
ところがこのお言葉をトールの手下たちは聞きつけ、次のように答えた。
すなわち、自分たち代々にわたって神仏をあがめており、今さらデウスに走るのは裏切りである。そのような節操のない者は、デウスの御勘気をもこうむるだろう。
それに、もしデウスが万物をお創りになったのなら、日本の国土もデウスによって創造されたのだから、日本の山や海をあがめても実はデウスに帰依している。
さらに、もし神仏がサタンであったとしても、当然サタンもデウスによって創造されたのだから、同じようにデウスによって創造されたキリストに祈るのと変わらないはずである。むしろ、強い力をもつサタンに帰依したほうが国や民のためになる」
ここで、“トールの手下たち”が述べていることに注目したい。
「キリストに祈るのと変わらない」
「サタンに帰依したほうが国のためになる」
天主教学において、創造主と被造物のあいだには雲泥どころではない差があることを、大友家の武士たちがまるで理解していなかったことがわかる文章である。
だが、日本史学の観点では、それよりも重要な点がある。
すなわち、これこそ後の叉丹教、叉丹諏太の宗旨なのだ。
近現代の秦景教の大半がその流れをくむといわれる叉丹教は、公式には天文寺宗論でその存在が発覚したことになっている。
しかし、もともと多神論どころか汎神論的な神仏混淆が支配していた秋津に天主教が侵入したとき、どのような反応が起こりどのような変質をとげたのか、その一例として興味深いと言えよう。
風炉美州蘭土:
翻字体はプロミスランド。
矢羽大陸中東部を支配する国家。民本論の起源をうたい、君主国の滅亡をかかげる。
また肌色差別、隔離政策で有名
佛洛意主
留斯佛洛意主。翻字体はルイス・フロイス。
耶蘇会士。秋津での不況の記録や人々の風俗を記した『日本史』で著名
ガスパール・コエリョ師:
漢訳体は加斯舶故会理誉。
耶蘇会士。後の日本準管区長。当時は豊後地区で布教にあたっていた
トール:
漢訳体は竜。
“天下統一”後、耶蘇会が多用した“雷神”立花道雪の蔑称。北秦の雷神の名。
当時、耶蘇会が秋津人を仇名で呼ぶのは一般的だった。例:奈多夫人=伊莎別(イザベル)
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漢字一色にするとどうなるか見てみたかった。

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