2010年4月26日月曜日

習作その10 海賊八幡船の後日談的な

第一話シリーズ。
ちょっと続くかも。



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「まあね、初犯やし大目に見るけど、いつまでも子供の気分は困るね」


 小太りの同心が、ぶつくさ文句をつぶやきながら二輪の登録番号を写している。

 しかし、文句を言いたいのはこちらの方だった。
 どうして人生初の二人乗りで、よりにもよって番所の前を通り過ぎるようなマネをせねばならなかったのか。しかも言いだしっぺでありこの暴挙で得をする人間は、自分ではないというのに。


 まあ、気持ちは分かるが。
 となりでうなだれている友人を横目に、こっそりため息をつく。


 たしかに、彼女の出自を考えると、上司の機嫌を損ねるわけにはいかない。

 とくに京都平安府は、よそものにうるさかった。
 いわゆる地方性にまつわる伝説として、京都人は平安京ができた後に入ってくる宗教を頭から排斥しにかかる、というものがあるが、この伝説の怖いところは、それが冗談でもなんでもない点にある。
 天主堂も礼拝堂もあるが、秋津人の信徒はほぼいない。



 しかし。
 それとこれとは関係ない、と思わざるを得ない。


 だいいち、今は宗教だとか民族だとか言語だとか、くだらないことで張り合っている場合ではない。
 その三つを「くだらないこと」扱いできるのが日本の美点であり欠点なのだが、ともあれ「国」というシステムが根付いている以上、その総力を使って自分たちの利益を引き出すのが、ここ数十年来のしくみだ。

 そして、多数派の秋津人がリードしているとはいえ、一千万単位で言葉も考え方もことなる人間が暮らしている日本は、いわゆる多民族国家に他ならない。
 そんな場所で差別などしていては、国が滅ぶ。


 まあ、要するに民族差別などという時代遅れなことをやっている暇があったらもっと別のことに精を出すべきで、そのついでに自分たちの交通法違反も見逃してほしいということなのだが、





「で、そっちの嬢ちゃんの名前は? 名字から忌名まで全部な」

「あ、はい。
 カドリ・ビント=シャイフ・マサミ・・・」


「ちょい待ち。字ぃを言ってってくれんかな」

「えーと、歌を取ると書いて歌取(カドリ)、メスの頭に沙門のえらい丈夫で牝頭沙偉夫(ビント=シャイフ)、正しく見るで正見(マサミ)です」


「歌を取るで歌取・・・
 ひょっとして、あんた回教修道団の関係者?」

「へ?
 え、ええ、まあそうですけど・・・」


「悪いけど、ちょっと番所まで来てもらうわ。
 兄ちゃん、あんたもな」





 この調子では、どうも無理そうだった。





 






 日本連邦、とくに秋津では、宗教過激派を嫌う。
 その憎悪はすさまじく、はたから見ていればただの宗教弾圧にしか思えないこともあるほどだ。


 読者諸賢の記憶に新しいところでは、修文法華事件があげられる。
 法華宗の国教化と国立戒壇建立をもとめる正門党が連邦議会に議席を得るや、それまで沈黙をたもっていた大教院が、なんの前ぶれもなく正門党やその母体である顕正講を攻撃。ちょうど連邦会議で議題にあがっていた議席配分にかかわる問題にまで発展させ、けっきょく正門党の議員は一人のこらず“辞職”せざるを得ない状況においこまれた。
 この年の補欠選挙が盛りあがったのは言うまでもない。


 もちろん、これは法華宗にかぎったことではない。
 「善智識による政治」をかかげ、織田六家の入信をめざすと公言してはばからなかった善光会
 みずからの大管長は神と交信できるとする末日聖人教会
 そしてもちろん、昨今はやりの回教強硬派。

 これらをすべて、政府・大教院は平等に禁圧している。



 このような政策は、現代だけのものではない。
 そもそも、こうした自由権に反するような政策が(矢羽や溟州などから)強い非難を浴びつつも続けられ、それを公民が支持し続けているのは、こうした大教院による統制がこれまで効果を上げてきたことだけが理由ではない。
 “天文大明神”織田信秀の立案、という点がかなり大きかった。



 信秀とその嫡男信長は、それぞれ別の宗教と戦い、どちらも勝利している。
 そしてその2度目の戦争が、秋津最後の宗教戦争だったのだ。








 
 誰もが知るように、秋津三島(当時は日ノ本と呼ばれていた)を織田家が完全統一したのは、京禄3年の夏、今でいう神紀4513年午月のこととされている。

 この“天下統一”の前後半世紀以上にわたって、信秀・信長親子は、ふたつのこの世ならぬ勢力と戦いを続けていた。



 そのひとつは、一向宗である。
 天文の年号が使われていた全期間にわたって為政者たちを苦しめた、現在は白蓮宗浄土顕真流本願寺派とよばれている彼らは、石山本願寺に新居をかまえた法主証如のもと、反織田勢力の中心となっていた。


 強い経済力や諸大名との連携、新兵器であった鉄砲の集中運用などで、講談で語られぬまま屍山血河をなしたこの全面戦争は、足かけ10年にわたる長期戦のすえ、総大将の証如をなくした一向宗の石山退去というかたちで決着がついた。
 宗門内の強硬派や各地の一揆勢の蜂起はそれからも散発的にあったが、これら武闘派のせいで一向宗の立場は悪くなる一方だったため、証如の後をついだ顕如が終戦工作に走りまわっている。

 この石山合戦が契機となっておこなわれた寺社刀狩によって、秋津は政教分離にむかう第一歩をしるしたと言うことができる。
 一向門徒も、これ以降は武具をとらなかったという。



 さて、この合戦は織田家にひとつの共通認識をもたらした。
 それを端的に表す逸話がある。

 信秀の死後も信長によって天下統一へ驀進する織田家を見るや、退去先から本願寺の復帰運動をおこない、ついに新生大坂城の一角に寺地をもぎとった顕如に対し、


「サテモ門跡殿ハ武門ノ鑑タルカナ」


 と信長が嫌味をはなった、というのだ。
 大失敗ののち地道に失点をとりかえした人間を「天晴門跡」とよぶのは、この話にちなむという説も出ている。
 ちなみに、このとき建立されたのが、今の天満本願寺である。



 この逸話は、石山を失ったにもかかわらず、一向宗勢力が精力的に活動していたことを示している。
 信秀も信長も、この異常な戦争の後始末に辟易していたのであろう。
 全国から門徒も銃砲も金銀も集まってくる石山本願寺という要塞を陥とし、そして領主や大名にかかわりなく全国に散在する寺地・一揆勢のすべてに停戦命令を届けるだけでも面倒なのに、仏道という広く知られた心の支えを敵に回したあとの慰撫も行わねばならない。

 大名が滅びるのは無能だからで、住民が悲しむ義理はない。
 だが寺社が滅びると、毎年の収穫すら保障されなくなる。
 織田親子のように来世についてかなりの疑いをもっている人間が少ない以上、そうした点も考えて戦後処理を動かす必要があった。
 しかも相手は、表面上は元気なのだ。


 宗教の力が異常だと改めて感じたのは、彼らだけではなかった。
 “天下統一”後、それまで織田勢力圏で実施していた政策とともに、宗教関係のお触れが矢次ぎ早に出されてゆくのは、理由のないことではない。



 その後、織田軍はこの石山合戦で得た教訓をものにしていった。
 たとえば鉄炮の集中運用はまっさきに導入されており、火薬を使った兵器が次々に開発されつつあった。
 さらに、木津川沖合戦で毛利水軍をやぶった鉄甲船は、九鬼家ひきいる織田熊野水軍の主力になっていたし、小早川家で研究されていた二形船──竜骨のある和船も増産が進んでいた。


 そんな革命期、しかも秋津に敵がいない状況にもかかわらず、二度目の宗教戦争は織田軍にまたもや大打撃を与えることになる。





 今度の相手は、耶蘇会(ジェズイット)だった。
 
 










 “天下統一”当時、秋津の耶蘇会には派閥抗争があった。


 耶蘇会は全世界をいくつもの管区にわけ、そのなかでも特に重要な、または人口のおおい地域に準管区、そうでない地域に布教区をわりあてていた。秋津は当初、東印度大管区の日本布教区だったが、本能寺の変ごろに準管区へ昇格した。
 初代の準管区長は、それまでの教区長の横滑りだった。
 記録されるところでは、名を方済各苛罵留。
 発音を翻字して、フランシスコ・カブラルともされる。



 カブラルの当て字がひどいことになっているが、これは彼にかんする悪評の原因にかぞえられている。
 今でもそうだが、こうした悪意ある当て字はこのころの秋津では珍しいどころの騒ぎではなく、そんな字を使われるほどの悪行を働いたのだろう、と見なされるようになったのだ。
 もっとも、あながち間違いではない。

 彼の下で京地区(という名前だが、四国と本州すべてを管轄する)布教長をつとめていた熱貴宇留岸によると、苛罵留時代の日本準管区は恐怖政治に近いものだったらしい。
 彼の意にそわぬ修道士や司祭らは残らずはじきだされ、彼と同じような差別論者ばかりで周囲がかためられた日本準管区、とくに彼の直轄する豊後地区は、ただの植民地と化していた。
 豊後以外の九州をうけもつ下地区も、似たりよったりの有様だ。



 彼は、耶蘇会総長の名代として秋津をおとずれた亜歴山徳魯范礼とも、するどく対立していた。
 理由は言うまでもない。
 范礼もまた、宇留岸と同じ意見をもっていたからだ。

 宇留岸は、天主教という真の教えを秋津に広めることで、ひとびとの魂を救うことができると考えていた。
 そのため、彼は京を走りまわる。
 邪教の神官ども(日記より。延暦寺の坊官か)と討論を活発におこない、彼らが搾取している貧民たち(清目など専属小売商のことか)に手をさしのべた。聖なる御言葉(天主聖書)をわかってもらうために、秋津人たちにむけた羅典語(ラテンご)の教室も開いたし、神学校も建てた。
 もちろん、自分から歩みよることも忘れない。
 彼は秋津人でも司祭に叙階することをためらわず、また自ら秋津の言葉を学んでいた。


 こうしたことを、苛罵留はいっさい禁止した。
 彼にとって、秋津人とは神の子羊ではなく悪魔の手下だった。
 当たり前だが、自分の部下たちにもそう命じている。

 もっとも、この反応だけを見て、彼を責めるのは間違いだ。
 当時の葡萄牙人、いや大秦人のほとんどは、そもそも泰東のひとびとを人間と思っていなかった。
 だから自分たちの説く御教えを、なんの疑問もいだかずに信じて当然、ついでに何がしかの物品を自分たちに貢いで当然、そういう認識が一般的だったといえる。

 ひとり耶蘇会だけが、この先入観を否定されていた。


 天竺はまだよかった。
 現実的な利益だけをもとめていても入信するものは多かったし、すでに天主教がある程度広まっていたので、彼らの教会まるごとの帰依が期待できた。
 問題は唐土と秋津だ。

 唐土にあっては、そもそも新しい宗教の入る余地がなかったうえ、しょせん南蛮人のたわ言としてまともに扱ってもらえなかった。
 秋津では一般住民の質問責めにあい、まずかれらが持っている常識の土台を崩すところから始めなければならなかった。


 そうした苦労に打ち勝つため、初代の方済各沙備依留は秋津適応論をかかげ、当地の信仰にそったかたちで布教を進めるよう命じていた。
 だが苛罵留は、これをあっさりと捨て、強圧的な布教を続けていったのだった。
 


 小田原の役が始まったころ、范礼は各地の耶蘇教会を見てまわったのち、苛罵留の罷免を決意して堺を出航し、瀬戸内で船とともに没した。
 結果、苛罵留は誰に咎められることもなく、“天下統一”まで自らの信ずる布教をすすめ、領主の大友義鎮が天主狂いとなり国がまっぷたつに割れた豊後をはじめとして、九州一円では反切支丹感情がひそかに高まっていた。





 そういった状況のなかで。



 いわゆる「血の池地獄の変」が、発生する。










 顕正講:
 法華宗系の新興宗教。日蓮の説く立正安国をもとめる。
 日本公民が残らず法華宗に改宗し、法華戒壇を政府が建立すべきとする


 善光会:
 白蓮宗系の新興宗教。一向宗の流れ。
 教団の会主だけが世界の真理を知っており、彼らに一切をゆだねるべきとする


 末日聖人教会:
 基督教系の新興宗教。いわゆる模留門(モルモン)


 東印度:
 呂宋や印度群島など、いわゆる三東諸国をさす


 熱貴宇留岸:
 翻字体はニェッキ・ソルディ・オルガンティノ。
 適応論者の耶蘇会士。天主聖書の翻訳に尽力。通称の「うるがんばてれん」で有名


 亜歴山徳魯范礼:
 翻字体はアレッサンドロ・ヴァリニャノ。
 適応論者の耶蘇会士。中国学の先駆


 方済各沙備依留:
 翻字体はフランシスコ・シャビエル。
 適応論者の耶蘇会創設者。日本に天主教をもたらした人物。
 古代基督教(秦景教)奉齋士との宗論で知られる









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 漢字一色にするとどうなるか見てみたかった。

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