妄想が止まらなくなったので、先に吐きだしておきます。
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八幡船。
ばはんせん、と呼ばれるその武装商船集団がいつ誕生したのかについて、議論は尽きない。
もっとも早いところでは、12世紀末に源九郎判官(義経)が海路で奥州藤原氏の勢力圏へ逃げこんだのち、一一八五年におかれた守護・地頭・惣追捕使別当が起源とする説がある。
惣追捕使別当とは、その名の通り「別に当てられた」惣追捕使である。では本物の惣追捕使はというと、こちらは分国ごとに置かれた追捕使──治安維持をつかさどる長官、兼ねて九郎追討使のことだった。
この惣追捕使がのちに守護となり、幕府を支えてゆくことになる。
さて、分国の治安維持を任されるようになった守護や荘園や公領の管理を主にとりあつかう地頭とは異なり、惣追捕使別当は最初から一国ひとりではなく、数か国に数人という体制で任命されていた。
なぜか。
それは、惣追捕使別当の所管が、もともと境界線など引けない場所だったからに他ならない。
そう。
惣追捕使別当の所管区域は、海の上だった。
源平の合戦で、平家の水軍衆はおおむね博多湾で滅亡し、これに対して源氏の水軍はいくつかのグループにわけられていた。
三浦半島と房総半島を拠点にする三浦水軍。
紀伊半島の宗教勢力と提携していた熊野水軍。
屋島の合戦で活躍した塩飽水軍。
日本一有名な村上水軍。
壇ノ浦で源氏側についた松浦水軍。
これら水軍衆の頭目を武士として取り立て、ついでに惣追捕使別当として全国に飛ばすことで、忠誠心の高い部下を日本各地に持てるという、頼朝の考えは図に当たった。
後鳥羽上皇の挙兵の際、上皇が深く傾倒していた熊野三山の指導部は、水軍衆とその影響下にある新しいタイプの修道士「修験者」によって倒れ、鶴岡八幡宮の別当という鎌倉幕府の影響が強い人物が新たにトップの座を奪ったのである。
ちなみに、このときはまだ「八幡(ばはん)」の名前は登場していない。
それが出現するのは、鎌倉幕府が名も実も失って滅びたのちのことになる。
南北朝時代。
朝廷が二つに割れたこの時代、水軍も南朝方・北朝方に分かれた。
住吉大社が南朝の拠点となったおかげで、京にほど近い瀬戸内海の水軍衆がほとんど南朝方につき、北朝と足利軍が苦しい戦いを強いられた事実は有名である。
ところが、九州の水軍衆の中には、日本だけで生活サイクルを完結させることに疑問を持ちはじめた人々がいた。
足利尊氏が落ち延びて南朝方と激戦を繰り広げている間に、九州では彼らにとって足りないものがどんどん増えていった。
だが、足りないものがあるなら、取ってくればいいのだ。
お隣の偉そうな国々から。
かくして、歴史学でいう前期倭寇がはじまる。
高麗政府は何度も倭寇討伐の命を発し、一五世紀初めには対馬に侵攻して住民の多数を虐殺・拉致するなど、どちらが海賊だかわからないような“輝かしい勝利”をおさめてゆくことになるのだが、これとふたつの意味で対照的だったのが明国だった。
明の政府レベルでは、海禁政策を取っている明に純粋な意味での貿易船は入ってくるわけがなく、そのため海賊も禁圧するという態度をとった。
これと逆の反応を示したのが中国人密貿易者たちである。
もともと海禁は彼らのような連中を干上がらせるためのものだったのだが、彼らにしてみれば密貿易という形で法を破っている以上、もう一つ破っても莫大な利益の前にはその事実など吹っ飛ぶ。
こうして日本の水軍衆と中国人密貿易者との間で交易がはじまるわけだが、ここで相手が水軍というのが曲者だった。
簡単に言ってしまえば、荒っぽい手段を用いることにためらいがまったくない。
この時代、海は命をかけて乗り切るべき場所だった。
天候は言うに及ばず、同業他社や本物の海賊が積荷を狙って襲ってくるかもしれない。逆に商売がうまくいかなかった場合は、自分が海賊に変身せねばならない時もある。
だからこそ、多くの倭寇──水軍衆は槍や刀を人数分より少し多めに船倉へつめこみ、陸に上がれば調練と称して実戦さながらの打ち合いを行わせていた。
そして“商売がうまくいかなかった場合”、最初の交戦相手はえてして交易相手の明船だった。
彼らはすぐに得物を持ちだす倭人にうんざりしつつ、それでも自分の富のために交易を許してやっていた。だから明人たちにとって、交渉の決裂──というより交渉から戦闘(もちろん彼らも自衛のため武装している)への変化をあらわす「八幡大菩薩」と書かれた幟は、嫌でも印象に残るものとなった。
「大菩薩」は中国人にもすぐ分かる。問題は上の二文字だ。
これを固有名詞と断定した彼らは、すぐに中国語の北方方言で「バーファン」と呼び始めた。
これが日本に逆輸入され、当時は「ファ」音だったハ行に翻字して、海賊行為や国外へ略奪に行くことをさす「ばはん」という言葉が生まれた。
「八幡船(ばはんせん)」の誕生である。
この単語が有名になるのは、戦国時代が終わったのち。
織田氏による拡張事業で、彼らの名は東アジアに広まることとなる。
なお、この単語は遠くイングランドまで伝わっている。
英語で「提督」をあらわす「アドミラル(Admiral)」は、アラビア語の「アミール・アル=バッファーン(أمير الباﻔﻔَﺎن)」つまり“水軍の大将”という単語に由来する。この「バッファーン」は、マレーのイスラム商人が日本語の「ばはん」をとりいれたものだ。
つまり「八幡」こそ、日本語として最初に英語へ影響をあたえた単語なのである。
海禁:
民間の海上利用を禁止する政策。
外洋航海はもちろん、沿岸漁業や水上交通も禁止されたことがある
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嘘八百です。
惣追捕使別当なんて実在しません。熊野水軍の政治的圧力もありません。アル=バッファーンとか大嘘です。
誤解のなきよう。