2011年7月6日水曜日

習作その12 海賊八幡船 解説

八幡船とは何か、について。
妄想が止まらなくなったので、先に吐きだしておきます。



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 八幡船。
 ばはんせん、と呼ばれるその武装商船集団がいつ誕生したのかについて、議論は尽きない。



 もっとも早いところでは、12世紀末に源九郎判官(義経)が海路で奥州藤原氏の勢力圏へ逃げこんだのち、一一八五年におかれた守護・地頭・惣追捕使別当が起源とする説がある。
 惣追捕使別当とは、その名の通り「別に当てられた」惣追捕使である。では本物の惣追捕使はというと、こちらは分国ごとに置かれた追捕使──治安維持をつかさどる長官、兼ねて九郎追討使のことだった。
 この惣追捕使がのちに守護となり、幕府を支えてゆくことになる。

 さて、分国の治安維持を任されるようになった守護や荘園や公領の管理を主にとりあつかう地頭とは異なり、惣追捕使別当は最初から一国ひとりではなく、数か国に数人という体制で任命されていた。
 なぜか。
 それは、惣追捕使別当の所管が、もともと境界線など引けない場所だったからに他ならない。

 そう。
 惣追捕使別当の所管区域は、海の上だった。
 




 






 源平の合戦で、平家の水軍衆はおおむね博多湾で滅亡し、これに対して源氏の水軍はいくつかのグループにわけられていた。
 三浦半島と房総半島を拠点にする三浦水軍。
 紀伊半島の宗教勢力と提携していた熊野水軍。
 屋島の合戦で活躍した塩飽水軍。
 日本一有名な村上水軍。
 壇ノ浦で源氏側についた松浦水軍。

 これら水軍衆の頭目を武士として取り立て、ついでに惣追捕使別当として全国に飛ばすことで、忠誠心の高い部下を日本各地に持てるという、頼朝の考えは図に当たった。
 後鳥羽上皇の挙兵の際、上皇が深く傾倒していた熊野三山の指導部は、水軍衆とその影響下にある新しいタイプの修道士「修験者」によって倒れ、鶴岡八幡宮の別当という鎌倉幕府の影響が強い人物が新たにトップの座を奪ったのである。


 ちなみに、このときはまだ「八幡(ばはん)」の名前は登場していない。
 それが出現するのは、鎌倉幕府が名も実も失って滅びたのちのことになる。





 南北朝時代。
 朝廷が二つに割れたこの時代、水軍も南朝方・北朝方に分かれた。
 住吉大社が南朝の拠点となったおかげで、京にほど近い瀬戸内海の水軍衆がほとんど南朝方につき、北朝と足利軍が苦しい戦いを強いられた事実は有名である。

 ところが、九州の水軍衆の中には、日本だけで生活サイクルを完結させることに疑問を持ちはじめた人々がいた。
 足利尊氏が落ち延びて南朝方と激戦を繰り広げている間に、九州では彼らにとって足りないものがどんどん増えていった。
 だが、足りないものがあるなら、取ってくればいいのだ。
 お隣の偉そうな国々から。



 かくして、歴史学でいう前期倭寇がはじまる。

 高麗政府は何度も倭寇討伐の命を発し、一五世紀初めには対馬に侵攻して住民の多数を虐殺・拉致するなど、どちらが海賊だかわからないような“輝かしい勝利”をおさめてゆくことになるのだが、これとふたつの意味で対照的だったのが明国だった。
 明の政府レベルでは、海禁政策を取っている明に純粋な意味での貿易船は入ってくるわけがなく、そのため海賊も禁圧するという態度をとった。
 これと逆の反応を示したのが中国人密貿易者たちである。
 もともと海禁は彼らのような連中を干上がらせるためのものだったのだが、彼らにしてみれば密貿易という形で法を破っている以上、もう一つ破っても莫大な利益の前にはその事実など吹っ飛ぶ。


 こうして日本の水軍衆と中国人密貿易者との間で交易がはじまるわけだが、ここで相手が水軍というのが曲者だった。
 簡単に言ってしまえば、荒っぽい手段を用いることにためらいがまったくない。

 この時代、海は命をかけて乗り切るべき場所だった。
 天候は言うに及ばず、同業他社や本物の海賊が積荷を狙って襲ってくるかもしれない。逆に商売がうまくいかなかった場合は、自分が海賊に変身せねばならない時もある。
 だからこそ、多くの倭寇──水軍衆は槍や刀を人数分より少し多めに船倉へつめこみ、陸に上がれば調練と称して実戦さながらの打ち合いを行わせていた。


 そして“商売がうまくいかなかった場合”、最初の交戦相手はえてして交易相手の明船だった。
 彼らはすぐに得物を持ちだす倭人にうんざりしつつ、それでも自分の富のために交易を許してやっていた。だから明人たちにとって、交渉の決裂──というより交渉から戦闘(もちろん彼らも自衛のため武装している)への変化をあらわす「八幡大菩薩」と書かれた幟は、嫌でも印象に残るものとなった。



 「大菩薩」は中国人にもすぐ分かる。問題は上の二文字だ。
 これを固有名詞と断定した彼らは、すぐに中国語の北方方言で「バーファン」と呼び始めた。
 これが日本に逆輸入され、当時は「ファ」音だったハ行に翻字して、海賊行為や国外へ略奪に行くことをさす「ばはん」という言葉が生まれた。

 「八幡船(ばはんせん)」の誕生である。


 この単語が有名になるのは、戦国時代が終わったのち。
 織田氏による拡張事業で、彼らの名は東アジアに広まることとなる。





 なお、この単語は遠くイングランドまで伝わっている。
 英語で「提督」をあらわす「アドミラル(Admiral)」は、アラビア語の「アミール・アル=バッファーン(أمير الباﻔﻔَﺎن)」つまり“水軍の大将”という単語に由来する。この「バッファーン」は、マレーのイスラム商人が日本語の「ばはん」をとりいれたものだ。
 つまり「八幡」こそ、日本語として最初に英語へ影響をあたえた単語なのである。










 海禁:
 民間の海上利用を禁止する政策。
 外洋航海はもちろん、沿岸漁業や水上交通も禁止されたことがある









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 嘘八百です。
 惣追捕使別当なんて実在しません。熊野水軍の政治的圧力もありません。アル=バッファーンとか大嘘です。
 誤解のなきよう。

2010年12月30日木曜日

図書課嘱託:予告

とあるチャット仲間のオフ会で、書きますといってしまった。
結局別のものでお茶を濁すことにしましたけどね。情けなくも懐かしい。



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「  部外秘



 政事総裁達 仮称六三五八〇九〇二〇一号前紙

 宛:政事総裁附御用検目奉行所員
   大目付部屋警察保安所司徳政吟味奉行所員
   陸水軍綜幕営憲兵司令部および各付属機関員
   および帝國全土における検目従事者       殿

 発:政事総裁部屋電信伝送掛



 本文



 部外秘特一号


 政事総裁達



 大目付部屋各々組頭
 各々外見の頭
 各々附城の長
 各々代官陣屋の長
 各々守護改方の長   殿



御用検目奉行 鹿内鯨武之丞 

大目付部屋警察保安所司 浅岡勝右衛門 

天章元年九月二日 




 「図書その他文化芸術品の御用検目に関する、天章元年の追加命令



 東亜戦争後における中華人民共和国の政経軍事的な成長にともない、帝国国民に対しての強制略取あるいは暴力攻撃、さらにはそれらを賛美あるいは奨励せんとする目的をもった、わが国の政治・経済・歴史的事実にかんする曲説の発売頒布による社会的影響は、もはや明白な危険となった。

 さらに、わが国の政治的混乱に乗じ自国あるいは関係団体の利益を図り、これがため帝国国民の生命財産等に対する暴力あるいは挑発行動により、現在判明するところでは本年内にのべ七四件の政治暴力攻撃ないし諸犯罪が行われている。

 これらの団体もまた、自らの行動を正当化あるいは自賛すべく、各種書物および文芸活動資料の発売頒布を続けている。



 これら悪性発行物の発売頒布を、前年より発令されている
 「第五次特種準内乱事態
 による現象とみなす。

 特種準内乱事態に対しては、銃器使用自由などの武断的処分のみならず、逓信書簡発行物類にあっても即応されねばならない。

 かかる事態において、御用検目奉行所、警察保安所および陸水軍綜幕営は一致して、関係各機関およびその全官吏職員に対し、以下のごとく命ずる。

 すなわち、

 一、同事態に対する行動命令の諸点に留意しつつ、

 二、以下の検目および処分標準を徹底し、

 三、文化的側面において、同事態の速やかなる完全収束を達成せよ






 図書その他文化芸術品の御用検目標準



 ◇一般的標準

 一、皇室の尊厳を冒涜する事項、また君主制を否認する事項

 二、共産主義、無政府主義、攻撃的民権論等の理論および戦略戦術を称揚し、
    もしくはその運動実行を扇動し、またはこの種の革命団体を支持する事項

 三、政所公議所問注所等、政治権力の特権性を強調し、これを誹謗し、
    その他はなはだしくこれを曲解する事項

 四、暴力主義、直接行動、大衆暴動その他不法行為を扇動する事項

 五、帝国領たる特定地域の敵対的特立勝手運動を扇動し、
    または非合法的に公議政体を否認する事項

 六、国軍存立の基礎を動揺せしむる事項

 七、外国の君主、元首および帝国に滞在する外国使節の名誉を毀損し、
    これがため国交上重大なる支障をきたす事項

 八、軍事外交上において重大なる支障をきたすべき機密事項

 九、刑事民事的犯罪を扇動もしくは庇護し、
    または犯罪人もしくは刑事被告人を賞恤救護する事項

 十、重大犯人の捜査上に甚大なる支障を生じ、
    その不検挙により社会の不安を惹起するがごとき事項

 十一、他社の保有財産を攪乱し、その他いちじるしく社会の不安を惹起する事項

 十二、右各項の行動を掩護、賛美または推進した、あるいはせんとする
     特定個人および団体を称揚する事項



 ◇特殊的標準

 一、出版物の目的

 二、読者の範囲

 三、出版物の発行部数および社会的勢力

 四、発行当時の社会情勢

 五、領布地域

 六、不穏箇所の分量

 七、軍事総裁所の定める国軍対面国、政事暴力団体等との関連

 八、戒厳事態、内乱事態等との関連





 図書その他文化芸術品の御用検目における、不良品および関係者の処分



 ◇一般的処分

  一、関係者注意処分

  二、関係者厳重注意処分

  三、次版削除命令



 ◇特種的処分

  一、不穏箇所削除処分

  二、発売頒布禁止処分

  三、関係者行政拘束命令




 
依如件相勤可申候 
 



 
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 「日本読書公社」から、ネタをいただきました。
 「図書館戦争」ほどかっとんだ設定は作れない。それが私の限界のひとつ。

 三日かかってこれだよ。えーいちくしょー。

2010年8月29日日曜日

宿題(超限戦本編予告)

とあるチャット仲間のオフ会で、宿題が出ました。
「今夜の、または今夜出たネタを使って、短編を上げること」
というわけで、いってみましょう。見切り発車オーライ、HAHAHA。



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 錨が投げおろされるよりも早く、船着き場に三人の男たちが足をつけた。
 三人とも潮にさらされた長い髪を後ろにまとめ、甚平や踏籠袴に半着といった、動きやすい格好をしている。
 風になびく半着のすきまから、日に焼けてよくひきしまった筋肉が見えていた。


 「名城へようこそ、八幡のかたがた」


 頬かむりに半着、裾をまとめた山袴という農夫ふうの男が、彼らを出迎える。三人のうち先頭を歩いていた男が、かるく手をあげてこれに応えた。


「おう、久しいのお義八」

「まったくお久しぶりです、藍原師伯。
 洞主もおまちかねでございます。そちらのお二人は?」

「ああ、こいつは瀬戸衆の青野屋形、こっちが近習の仁左衛門や」


 先頭の男──藍原は、自らの左右に続いている男たちを紹介した。
 左にいた青野が脇にたらしていた右手の指をまっすぐにのばし、そのまま垂直に眉の横までもってくる。細長い箱をささげもっているせいで両手がふさがっていた右の仁左衛門は、ただ会釈した。


「これは、ご高名はかねがね」


 義八とよばれた農夫ふうの男は、本心からそう答えた。
 武辺者のあいだでこうしたやりとりがあるとき、つねに「ご高名は~」と返すのが礼儀だが、今このときはそうではない。
 青野は瀬戸内の官軍をたたき出したことで、仁左衛門は青野の下につけられ偽情報の洪水をつくりだしたことで、義八のみならずその太師たちにまで名を知られている。もちろん二人とも、自身の武芸とて怠りない。

 そして、彼らが藍原とともにやってくることは、最初から義八も承知していた。先ほどの質問は、形式的なものにすぎない。
 つまり、なにも異常はないはずなのだ。



 奇怪なのは、いずれ劣らぬ海の勇士であり、めったなことでは表情をかえることもない彼ら三人が一様に顔をくもらせ、仁左衛門などはほとんどしかめ面と言ってよい表情になっていることだった。



 疑念をふくらませつつも、義八は近くで合掌していた若者をよぶ。
 彼に何ごとか申しつけてから、義八は三人の男たちに顔をむけた。


「では御三人様、こちらの高橋が町までご案内いたします。
 開会は夜更けを予定しておりますれば」

「応」


 またかるく手をふって応えた藍原を見送り、「南無阿弥陀仏」と唱えて三人の先導をはじめた若者に目配せをしてから、義八は次々と上陸してきた矢倉船の船員たちに向きなおり、そこで気づいた。





 考えてみれば。
 天下の往還八幡の輔屋形が、矢倉一隻だけでこそこそ名城湊にやってくる時点で、何かがおかしいと思うべきだったのだ。





 






 帝國によれば、扶桑の島じまは中華を慕って、みずから倍達に服したらしい。
 そして倍達は、扶桑のような豊かな国を自分たちだけで独りじめするのは畏れ多いとして、これを帝國に献上したのだという。

 もちろん、これは天朝が布告した内容にそった話だ。つまり帝國のどこからも、この説話にたいする文句は出てこない。
 文句は出てこないが、それとはべつに扶桑は倭族のものだ。
 そう思った人びとは、たがいに連絡を取りあって、ときには一同に会して、自分たちの生活を守ることにした。

 これが、無言同盟のはじまりである。










「で、だ。
 今回、暦を反故にして、お前さんらを無理やりかきあつめた理由なんだが」


 その無言同盟の加判衆が、月のないこの夜、名城のとある館に集っていた。
 館といっても要するに崩れていない屋敷ということであり、六人の男女が三人ずつ、向かいあわせに足を崩している座布団の下は、もはや黒くなった古畳である。


「そこよ。
 いったい高麗どもの目に、いちばん敏感なのは八幡屋じゃあないか。
 それがどうしたことなんだい?」


 ただ、はじめから参加者たちが、その予定を決めていたわけではない。
 どころか、その存在を予期していたわけでもない。


「同事」

「おかげでうちは、宿場をひとつやられちまったよ。
 それだけの話なんだろうね?」


 むしろ、加判のひとりである藍原が、なりふりかまわず使いを走らせて強引に開会を決めたものといってもよかった。
 当然だれもが、扶桑のすみずみから集まるために荒事の二つ三つをくぐりぬけてきている。


「やめなせえ、先輩がた!
 今回の騒ぎじゃ、誰もかれも何かしらの傷をつくってるんだ。
 わめきなさんな、あとで落とし前をつけさせりゃすむことで」

「ほざくんじゃないよ若造が。
 故府がいくら泣いたところで、春日屋のあんたは痛くもかゆくもないじゃないか!」

「おっと一条姐さん、そいつは聞き捨てなりませんねえ・・・」


 であるからして。
 まあ、このように、小さな行灯の光にゆらめく加判たちの顔が殺気立っているのも、無理はないことであった。
 むしろ殺気立っているのは、藍原の背後にひかえる仁左衛門かもしれないが。



 だが。


「そのへんにしときぃな」


 声とともに空気を破ったのは、パンパンとよく通る破裂音。
 拍手である。
 音の主をもとめて、十個のくろい目が上座にむかった。そこにいるのは──


「とにかく、信さんの話を聞いてみましょ。
 みんながどうするかは、そのあと考えてもええやろ」



 腰までの黒髪。
 平時にはけっして開かれない瞼。
 良人を失ってから彼女の目印となった黒留袖。

 近江河内洞と無言同盟の主をかねる、後藤愛奈であった。



 鶴の一声。
 表だって彼女に文句を言える者など、この場にいるわけがない。
 彼女は盲目ではなく、単に内力を発しないために目を閉じているだけと知っていれば、なおさらのことだ。

 一瞬で空気が凍りつく部屋に、すきとおった彼女の声だけがこだまする。


「信さん、お話は短く頼んます」

「応。悪いな」


 盟主にもなれなれしい態度を崩さない藍原は、しかし次の瞬間、ふざけた態度をかなぐり捨てて声をしぼり出した。


「真仙丹の行方がわかった」



 ズッ、と。
 身を乗り出したのは、果たして誰か、いや何人であったか。


「・・・こいつは、宿場がどうのと言っていられなくなったね」

「まったく。これこそ聞き捨てなりませんや」


 先ほどまで言い争っていたふたりも、目つきをとがらせる。
 藍原にではなく、彼の発した言葉に対してだ。


「その仙丹は、今どこにありますのん?」


 心なしか、後藤の反応もどこか装ったふうが見える。
 その彼女に顔をむけて、藍原は答えた。


「長江のどっかや。南海七十二島の手先が言うてよこしたから間違いない。
 先月、崋山に安国軍が攻撃をかける直前に、女がひとり下山を許されたそうや。その女が、仙丹を孕んでるとみてええやろ」

「いや、ちょっと待ってくれ」

 声が上がる。
 見れば、今まで無言を保ってきた黒い袈裟の男であった。


「どうしなすった、法主」

「話を聞いていて、少し気になったんだけどね。
 もしかすると、君の後ろにいる彼が捧げ持っているのは・・・」


 そこまで聞いて、場がざわめき始めた。藍原は頭をかく。


「しゃあねえ、法主に隠し事はでけへんなあ。
 お察しの通りで。こいつは孫六重兵衛や」



 今度こそ、空気が凍りついた。










「きさま、何を考えとるのだ!」


 我に返ってまっさきに怒鳴りちらしたのは、老齢の男。
 暗い中でも、紋が染め抜かれた羽織を着ているのだとすぐにわかる。


「いまや唯一となった御神代を、なんと心得る!
 きさまのことだ、どうせ御動座の儀もろくろくやっておらんに違いない。どういう了見で御神刀を動かしたか、返答次第ではただおかんぞ!」


 暗闇にもあきらかなその怒気を、しかし藍原は鼻で笑って受け流す。


「時代錯誤もええ加減にせえよ、じいさん。
 いま大事なのは、この錆びたボロ刀を高麗のガキどもに渡さんこと、それとこの場でみんながまとまること。
 ちゃうんか?」


 老人が目を見開く。悔しそうに歯を鳴らすが、それ以上の反論ができない。
 当たり前だ。
 彼の従者が捧げもっているその刀に関していえば、藍原のせりふは何も間違っていないのだから。

 そんな老爺をよそに、藍原はあごをしゃくった。
 仁左衛門が進み出て、全員に見える位置に細長い箱をおく。
 不安定な明かりによるものではなく、彼ら自身の先入観の賜物ではあるが、彼らは例外なく、その箱の中身に言いしれぬ怖れを抱いていた。
 恐怖と畏怖の、その両方である。



 そんな中、ひとり藍原のみ元気がいい。


「てなわけで、誰か知らんけどこいつの相方を、早よう見つけなあかんな」

「どういうことだ」

「とにかく、同盟にいまできることは、こいつを扱えるやつをとにかく探しだして、仙丹に立ち向かえるようにすること。これに尽きるわけや。
 なんせ、アレがまっさきに落ちるのはこの扶桑や。使い手が鬼若の力をじゅうぶんに引きだせな、たったひとつの切り札も海の藻屑やからな」


 藍原が続けた言葉に、しかし疑問をもつ女がふたり。


「待ちな、八幡屋。
 あんたさっきから仙丹仙丹うるさいけれど、いったいどうしてそこまで焦るんだい。
 だいたい、仙丹が今すぐ扶桑に来ると決まったわけじゃなし、落ち着いて対策を練ろうじゃないか」

「そうでんな。まだ何か、言わなあかんことがあんのと違う?」


 一条と後藤の追及に、藍原はにこやかに答えた。


「なんで焦ってンのか?
 そら、仙丹呑んだ女が、こっち向こうて来とるからに決まってまんがな」

















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 ちょっと厨二っぽく。
 こんなことなら、あのときもっと別のネタを出していればよかった。

2010年5月2日日曜日

習作その11 海賊八幡船その後つづき

第一話シリーズ。
の、はずが、続きました。



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 新しいものごとが海外から入ってくるだけなら、誰も拒否しない。
 が、それが支配的になり、しかも強引となれば話は別だ。
 そうした秋津人の排他性は、いたるところに現れている。


 例えば。
 余談となるが、日本の清涼飲料勢力図は、その象徴だ。



 まず、総売り上げの四割弱をしめ、文句なしに清涼飲料業界の筆頭をつっぱしる住吉御師水取組合。
 もちろん、その大半は平野飴(炭酸冷やし飴)が稼ぎだしている。

 つぎに、南方で絶大な人気をほこる東都檳榔惣講。
 東都檳榔香草水(ビンロウルートビア)を主力としている。

 そして三番手に、ある意味で今回の主役が登場する。
 松原調薬同志会。
 筆者も愛飲している、「黒松がらな」の製造所である。



 黒松がらなは、日本で唯一、全国で見られるガラナ水だ。

 ガラナは瓜拿とも書き、安地(アンデス)の山麓から熱帯雨林で自生する植物である。地元住民は種の皮をむいて粉にし、湯にといて飲む習慣がある。

 これが商品になったのは百年ほど前、日本では五十年前に爆発的に広まった。
 その原因は、皮肉なことに古柯口楽(コカコーラ)だったのだが。



 古柯社をはじめ、第二次世界大戦によって“正義の武器庫”を自任した風炉美州蘭土の企業公司は、先をあらそって前線となった各国に販路をひらいた。
 そして戦争が終わると、今度は古柯口楽と競合していた解卵口楽(ペプシコーラ)が新しく参入し、日本の清涼飲料水は彼ら二社と平野飴の三つどもえになりつつあった。


 そこまできて、日本の水売りたちが危機感をもった。
 かれらは自分たちの存続をかけ、調薬同志会をつくる。
 この集まりに“松原”と名づけたのは、事業が大きく育つようにと縁起をかついだこともあるが、汚染や塩害につよい黒松が摂海の岸に植えられ、“住吉の松原”として有名だったという理由が大きい。


 つまり、同志会はなによりも

 “海外からの汚染(侵入)”をふせぎ、“住吉(平野飴)を守る”

 ための会だったのだ。


 同志会は口楽に対抗できる飲みものの情報を集め、伯剌西爾(ブラジル)でのみ人気が高いガラナ水に目をつける。
 結論が出るのは早かった。
 かれらは泰東洋をはるばる渡って原料を買い、日本で売りだした。



 そして、五年後。
 古柯口楽は、みごとに黒松がらなの後塵を拝するに至ったのである。


 さらに、その頃になると戦中からの“風炉美州化”に対する反動で、比較的歴史のある飲みものが好まれるようになっていた。
 本場の東都から全国へとひろがる檳榔の波と重なるようにして、秋津から南方へ拡散していった黒松がらなは、風炉美州と日本の関係が悪化するにつれてますます売り上げを伸ばし、古柯社のみならず解卵組にも

「一割の壁」

 と言わしめる、長い”口楽の冬”を生んだのだった。





 それてしまった話を、元に戻すと。



 結局のところ、血の池地獄の変とは、そうしたものであった。





 






 別府の地獄は、現代でもその名前だけで値打ちがある。
 今より娯楽が少なかった安土大坂時代となれば、当然のことだ。

 そして、温泉地は観光地だが、療養地でもある。

 さらに、竜造寺氏が家内建てなおしに奔走し、老いてなお猛き“治天”信長の御来寇によって田畑がぼろぼろになった島津氏が検地に泣いている当時、大友家領はいたって平和であった。



 つまり、あくまで日本的な発想で考えれば、あいつぐ同僚の戦死により大友双璧の片方となってしまった戸次あらため立花道雪が

「湯治に行きたい」

 と言い出しても、それなりの説得力があったのだ。



 もうひとりの双璧だった高橋紹運からみても、道雪はもう父ほどの年齢だったし、隠居してなお伴天連とつるんで藩を動かしつづける大友義鎮とは、みごとに関係が断絶していた。
 さらに、心配種だった主家のあとつぎ義統も(少なくとも内政家としては)実力をつけてきており、療養するなら今しかないという空気もあった。

 なぜ療養が必要かといえば、言うまでもない。
 はるか昔、雷に打たれて動かなくなった彼の下半身は、老いとともに上へ上へとその麻痺を侵食させていたのである。



 ともあれ、事情を知っていれば

「“雷神”道雪も老いたか」

 ということになる。
 長老たちの戦死で急増した若い武将たちは彼のようになろうと発奮し、仇敵たちは国内事情のせいで大友を攻められない自分たちを恨み、年明けまではそれ以上のことにならないはずだったのだ。



 ところが、苛罵留については、その限りでなかった。





 先述したように、このころの豊後は国論が割れていた。
 切支丹とそれ以外のふたつに、である。

 義鎮のおかげで秋津第一の天主教地帯となった豊後だが、これを快く思わないものもいた。
 正確には、そうしたものの方が多かった。



 今から見れば、これは当然のことだ。
 上様(前藩主義鎮)の権威をかさにきて所かまわずふんぞり返り、仏僧とみればどなりあげ女とみれば悪態をつき、意味のとおらない雑言をわめくだけわめいて勝ち誇り、あげくのはてに寺を焼き土地を奪って南蛮寺(天主堂)を建てる。
 古く強盗のことを濫妨というが、彼らはまさに“濫妨者”だった。


 最初から、こうだったわけではない。
 沙備依留が音頭をとっていた最初の布教では、耶蘇会士は礼儀正しく、下々にも分けへだてのない清廉の士として通っていた。
 秋津人差別はあったが、伴天連が率先して人買いにはなっていない。

 つまり、苛罵留時代はそうなっていたのだが。



 幸い、苛罵留と彼の部下たちの勢力圏は九州一円にとどまっている。
 本州は、京地区布教長の宇留岸が仕切っていた。

 だが、縄張りが広くても権力はかぎられている宇留岸が、日本でもっとも高位の苛罵留を止めることはできない。結果として、豊後は苛罵留や義鎮ひきいる切支丹と、義統ほか大友家中が主導するそれ以外に割れてしまった。

 いちおう洗礼は受けた義統が“それ以外”の旗頭になったのは、自分が当主になったはずなのに天主狂いの隠居が領地の運営をじゃましてばかりいる、という実際的な理由があったが、八幡神を信じていた母の奈多夫人が、父や伴天連に迫害されて急逝したこともあると言われている。


 なお問題なのが、豊後以外の九州についてだった。
 大友氏とともに切支丹として名高い大村氏は、長崎を耶蘇会に寄進していた。
 ところが天下統一により、長崎は織田の直轄領とされる。ひさびさに長崎へやってきた博多商人たちは、それまで長崎で弾圧されていた仏教徒たちから、耶蘇会や南蛮人の領土的野心について詳しく聞くことになった。

 結果、九州沿岸の町では

「天主教は、南蛮人が日ノ本をのっとるために作った秘密結社」

 という流言が常識のように広まり(他の泰東諸地域について考えれば、あながち間違っていないのだが)、各地の切支丹は寺社だけでなく近所の人々からも、強烈な反感を買うことになった。


 ちなみに噂は堺に伝わり、切支丹大名たちが衝撃を受けていた。
 さらに、血の池地獄の変を知った代官の織田信忠がここぞとばかりに父親へ送りつけた讒訴に書かれていた南蛮貿易商の人買い疑団をめぐり、一連の権力闘争がはじまる。

 次の夏にあいついで出された「両天主教令」は、その産物といえよう。



 まあ、そうした未来の話はさておくとして、九州の教勢縮小という大失敗を招いたのは、ほかでもない苛罵留など差別論者である。
 彼を黙認した天川(マカオ)の司教座も、同罪と言えるが。



 だが、そうとは知らない苛罵留は、反切勢力のなかでも高い地位をしめる道雪が豊府からいなくなることを喜び、ついでに日本人の密偵がよこした報告に仰天していた。



 特に、





 『地獄へ全浸浴に向かう』





 という、簡潔きわまる一文に。










 結末から言うと、苛罵留は血の池地獄を見なかった。
 見ない方がよかっただろう。

 ここでいう血の池地獄とは、文字通りの意味だったのだから。


 そう。

 血の池地獄の変は、たしかに別府の地獄で起きた。
 しかし、いわゆる名勝「血の池地獄」で起きた事件ではなく、温泉が血に染まった様子を血の池と称したに過ぎないのである。





 とはいえ、その正確な経緯は、よくわかっていない。



 なにしろ、陣営ごとに記録を残してはいるものの、内容が食い違うどころか正反対になっているのだ。
 悪いのも敵方、原因も敵方、会話の攻守まで真逆だ。

 ここまでくると片方が他方を模倣したとしか思えず、大秦に資料があることを考えると耶蘇会側が先に記録したと考えられる。
 だが、耶蘇会の記録もうのみにはできない。
 そもそも耶蘇会の記述が事実に即していたのか、という疑問が出てくる。そして、苛罵留の支配下にあった当時の九州耶蘇会で、その可能性はきわめて低い。

 耶蘇会の資料は、当時の秋津風俗をこまかく描写している点では重要なのだが、善悪判断などがつきまとう案件になると史料的価値を一気に失う。
 いつも天主側(そして白人側)に偏った視点だからだ。
 天主教の修道会としては褒めるべき立ち位置だが、史家には迷惑でしかない。



 ただ、ともあれ


「立花道雪に無礼をはたらいた伴天連たちが、彼をさらなる危険にさらしたため、道雪の部下たちが伴天連たちを温泉に放りこんだ」


 という程度なら、二次資料で明らかになっている。



 もちろん、耶蘇会側の記録ではそうならない。

 地獄に行って帰ってくるという宣言は、道雪が生きながら地獄に堕ち、さらにまた復活できることを示しており、それはもはや人間業ではない。
 そして彼が切支丹でない以上、道雪は悪魔なのだ。

 つまり、彼の滅却を命じた苛罵留には、なんら落ち度はないということになる。


 彼の意をうけて別府温泉に乗りこんだ伴天連たちは、おそらく彼の正しさを確信したことだろう。

 別府八湯には、一般に言われる温泉とは違うものが多い。
 それこそ沸騰寸前の熱湯がわく泉などざらで、蒸気だけが岩をめぐるもの、熱をもった泥が吹きでるもの、そして名高い“赤湯の泉”など、日本広しといえども別府以外ではそうそうお目にかかれない温泉が大量にあるのだ。

 もちろんそれらの泉で入浴するわけではないが、だからといって奇異に映らないわけがない。


 さらに、伴天連たちは“温泉”を見たことがなかった。

 湯が出る泉を見たことがないわけではない。
 だが、そういった泉はおおむね薬湯、あるいは飲用の鉱泉として使われたことしかなかった。
 何の薬効もないのに、湯につかるという発想がない。


 大友領の観光地として名を知られていた別府の地獄だが、伴天連たちから見れば文字通り、地獄の一部がこの世に現れているとしか思えなかった。
 そんな場所で、異教徒たちが湯につかっている。
 許せるわけがない。



 とはいえ、血の池地獄の変についてもっとも興味深い記録は、やはり耶蘇会のものだ。

 いわゆる『佛洛意主日本史』には、次のような記述がある。





ガスパール・コエリョ師は、この世の地獄に帰り今まさにくつろがんとしているトールとその手下たちに、その熱泉にからだを浸せば最早人ではないので、一刻も早く良心をとりもどし府内に戻るよう伝えた。

 しかしすでに奥の泉では、人々が自分の思うように湯に浸かっていた。トールの手下たちは、土民が行っていることを自分らが行っていけないはずはないと考えているので、いっせいに反発した。

 そのため、コエリョ師は彼らに、火と硫黄の池に自らを投げいれることはサタンでも行わなかった暴挙で、デウスの御恩を捨てることにつながることを、大いなる愛情をもって説いた。

 彼らはサタンが何者かについてまったく無知であり、コエリョ師と数人の修道士がかわるがわる説明した(その間に、手下たちを見捨てたトールは自分の輿を下人に担がせ、熱泉へと向かっていた)。


 しかし教えをうけた彼らは大きく口をあけて笑い、「お前たちと違って、われわれは神がいる場所を知っている。それはすぐそばにある」と言った。

 コエリョ師と一行は、彼らに御教えを説くよりもトールを屈服させるべきと思っていたので、彼らを押しのけてトールの輿を追いかけた。

 すると手下たちがコエリョ師にせまり、トールよりも彼らの神に会えばいいのだ、とはやしたてた。

 コエリョ師がその場所を訊ねると、トールの手下たちは笑いながらコエリョ師をかつぎあげ、近くにあった熱泉に投げつけた。



(中略)



 これらの非道なふるまいにも、コエリョ師は神の試練と愛を感じられた。しかし師は、このときトールの手下たちも神仏がサタンだと理解していたことに気づかれて、それなのになぜ愚行をくりかえすのか、大いに嘆かれた。

 ところがこのお言葉をトールの手下たちは聞きつけ、次のように答えた。


 すなわち、自分たち代々にわたって神仏をあがめており、今さらデウスに走るのは裏切りである。そのような節操のない者は、デウスの御勘気をもこうむるだろう。

 それに、もしデウスが万物をお創りになったのなら、日本の国土もデウスによって創造されたのだから、日本の山や海をあがめても実はデウスに帰依している。

 さらに、もし神仏がサタンであったとしても、当然サタンもデウスによって創造されたのだから、同じようにデウスによって創造されたキリストに祈るのと変わらないはずである。むしろ、強い力をもつサタンに帰依したほうが国や民のためになる」





 ここで、“トールの手下たち”が述べていることに注目したい。



「キリストに祈るのと変わらない」

「サタンに帰依したほうが国のためになる」



 天主教学において、創造主と被造物のあいだには雲泥どころではない差があることを、大友家の武士たちがまるで理解していなかったことがわかる文章である。

 だが、日本史学の観点では、それよりも重要な点がある。


 すなわち、これこそ後の叉丹教、叉丹諏太の宗旨なのだ。


 近現代の秦景教の大半がその流れをくむといわれる叉丹教は、公式には天文寺宗論でその存在が発覚したことになっている。

 しかし、もともと多神論どころか汎神論的な神仏混淆が支配していた秋津に天主教が侵入したとき、どのような反応が起こりどのような変質をとげたのか、その一例として興味深いと言えよう。









 風炉美州蘭土:
 翻字体はプロミスランド。
 矢羽大陸中東部を支配する国家。民本論の起源をうたい、君主国の滅亡をかかげる。
 また肌色差別、隔離政策で有名


 佛洛意主
 留斯佛洛意主。翻字体はルイス・フロイス。
 耶蘇会士。秋津での不況の記録や人々の風俗を記した『日本史』で著名


 ガスパール・コエリョ師:
 漢訳体は加斯舶故会理誉。
 耶蘇会士。後の日本準管区長。当時は豊後地区で布教にあたっていた


 トール:
 漢訳体は竜。
 “天下統一”後、耶蘇会が多用した“雷神”立花道雪の蔑称。北秦の雷神の名。
 当時、耶蘇会が秋津人を仇名で呼ぶのは一般的だった。例:奈多夫人=伊莎別(イザベル)










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 漢字一色にするとどうなるか見てみたかった。

2010年4月26日月曜日

習作その10 海賊八幡船の後日談的な

第一話シリーズ。
ちょっと続くかも。



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「まあね、初犯やし大目に見るけど、いつまでも子供の気分は困るね」


 小太りの同心が、ぶつくさ文句をつぶやきながら二輪の登録番号を写している。

 しかし、文句を言いたいのはこちらの方だった。
 どうして人生初の二人乗りで、よりにもよって番所の前を通り過ぎるようなマネをせねばならなかったのか。しかも言いだしっぺでありこの暴挙で得をする人間は、自分ではないというのに。


 まあ、気持ちは分かるが。
 となりでうなだれている友人を横目に、こっそりため息をつく。


 たしかに、彼女の出自を考えると、上司の機嫌を損ねるわけにはいかない。

 とくに京都平安府は、よそものにうるさかった。
 いわゆる地方性にまつわる伝説として、京都人は平安京ができた後に入ってくる宗教を頭から排斥しにかかる、というものがあるが、この伝説の怖いところは、それが冗談でもなんでもない点にある。
 天主堂も礼拝堂もあるが、秋津人の信徒はほぼいない。



 しかし。
 それとこれとは関係ない、と思わざるを得ない。


 だいいち、今は宗教だとか民族だとか言語だとか、くだらないことで張り合っている場合ではない。
 その三つを「くだらないこと」扱いできるのが日本の美点であり欠点なのだが、ともあれ「国」というシステムが根付いている以上、その総力を使って自分たちの利益を引き出すのが、ここ数十年来のしくみだ。

 そして、多数派の秋津人がリードしているとはいえ、一千万単位で言葉も考え方もことなる人間が暮らしている日本は、いわゆる多民族国家に他ならない。
 そんな場所で差別などしていては、国が滅ぶ。


 まあ、要するに民族差別などという時代遅れなことをやっている暇があったらもっと別のことに精を出すべきで、そのついでに自分たちの交通法違反も見逃してほしいということなのだが、





「で、そっちの嬢ちゃんの名前は? 名字から忌名まで全部な」

「あ、はい。
 カドリ・ビント=シャイフ・マサミ・・・」


「ちょい待ち。字ぃを言ってってくれんかな」

「えーと、歌を取ると書いて歌取(カドリ)、メスの頭に沙門のえらい丈夫で牝頭沙偉夫(ビント=シャイフ)、正しく見るで正見(マサミ)です」


「歌を取るで歌取・・・
 ひょっとして、あんた回教修道団の関係者?」

「へ?
 え、ええ、まあそうですけど・・・」


「悪いけど、ちょっと番所まで来てもらうわ。
 兄ちゃん、あんたもな」





 この調子では、どうも無理そうだった。





 






 日本連邦、とくに秋津では、宗教過激派を嫌う。
 その憎悪はすさまじく、はたから見ていればただの宗教弾圧にしか思えないこともあるほどだ。


 読者諸賢の記憶に新しいところでは、修文法華事件があげられる。
 法華宗の国教化と国立戒壇建立をもとめる正門党が連邦議会に議席を得るや、それまで沈黙をたもっていた大教院が、なんの前ぶれもなく正門党やその母体である顕正講を攻撃。ちょうど連邦会議で議題にあがっていた議席配分にかかわる問題にまで発展させ、けっきょく正門党の議員は一人のこらず“辞職”せざるを得ない状況においこまれた。
 この年の補欠選挙が盛りあがったのは言うまでもない。


 もちろん、これは法華宗にかぎったことではない。
 「善智識による政治」をかかげ、織田六家の入信をめざすと公言してはばからなかった善光会
 みずからの大管長は神と交信できるとする末日聖人教会
 そしてもちろん、昨今はやりの回教強硬派。

 これらをすべて、政府・大教院は平等に禁圧している。



 このような政策は、現代だけのものではない。
 そもそも、こうした自由権に反するような政策が(矢羽や溟州などから)強い非難を浴びつつも続けられ、それを公民が支持し続けているのは、こうした大教院による統制がこれまで効果を上げてきたことだけが理由ではない。
 “天文大明神”織田信秀の立案、という点がかなり大きかった。



 信秀とその嫡男信長は、それぞれ別の宗教と戦い、どちらも勝利している。
 そしてその2度目の戦争が、秋津最後の宗教戦争だったのだ。








 
 誰もが知るように、秋津三島(当時は日ノ本と呼ばれていた)を織田家が完全統一したのは、京禄3年の夏、今でいう神紀4513年午月のこととされている。

 この“天下統一”の前後半世紀以上にわたって、信秀・信長親子は、ふたつのこの世ならぬ勢力と戦いを続けていた。



 そのひとつは、一向宗である。
 天文の年号が使われていた全期間にわたって為政者たちを苦しめた、現在は白蓮宗浄土顕真流本願寺派とよばれている彼らは、石山本願寺に新居をかまえた法主証如のもと、反織田勢力の中心となっていた。


 強い経済力や諸大名との連携、新兵器であった鉄砲の集中運用などで、講談で語られぬまま屍山血河をなしたこの全面戦争は、足かけ10年にわたる長期戦のすえ、総大将の証如をなくした一向宗の石山退去というかたちで決着がついた。
 宗門内の強硬派や各地の一揆勢の蜂起はそれからも散発的にあったが、これら武闘派のせいで一向宗の立場は悪くなる一方だったため、証如の後をついだ顕如が終戦工作に走りまわっている。

 この石山合戦が契機となっておこなわれた寺社刀狩によって、秋津は政教分離にむかう第一歩をしるしたと言うことができる。
 一向門徒も、これ以降は武具をとらなかったという。



 さて、この合戦は織田家にひとつの共通認識をもたらした。
 それを端的に表す逸話がある。

 信秀の死後も信長によって天下統一へ驀進する織田家を見るや、退去先から本願寺の復帰運動をおこない、ついに新生大坂城の一角に寺地をもぎとった顕如に対し、


「サテモ門跡殿ハ武門ノ鑑タルカナ」


 と信長が嫌味をはなった、というのだ。
 大失敗ののち地道に失点をとりかえした人間を「天晴門跡」とよぶのは、この話にちなむという説も出ている。
 ちなみに、このとき建立されたのが、今の天満本願寺である。



 この逸話は、石山を失ったにもかかわらず、一向宗勢力が精力的に活動していたことを示している。
 信秀も信長も、この異常な戦争の後始末に辟易していたのであろう。
 全国から門徒も銃砲も金銀も集まってくる石山本願寺という要塞を陥とし、そして領主や大名にかかわりなく全国に散在する寺地・一揆勢のすべてに停戦命令を届けるだけでも面倒なのに、仏道という広く知られた心の支えを敵に回したあとの慰撫も行わねばならない。

 大名が滅びるのは無能だからで、住民が悲しむ義理はない。
 だが寺社が滅びると、毎年の収穫すら保障されなくなる。
 織田親子のように来世についてかなりの疑いをもっている人間が少ない以上、そうした点も考えて戦後処理を動かす必要があった。
 しかも相手は、表面上は元気なのだ。


 宗教の力が異常だと改めて感じたのは、彼らだけではなかった。
 “天下統一”後、それまで織田勢力圏で実施していた政策とともに、宗教関係のお触れが矢次ぎ早に出されてゆくのは、理由のないことではない。



 その後、織田軍はこの石山合戦で得た教訓をものにしていった。
 たとえば鉄炮の集中運用はまっさきに導入されており、火薬を使った兵器が次々に開発されつつあった。
 さらに、木津川沖合戦で毛利水軍をやぶった鉄甲船は、九鬼家ひきいる織田熊野水軍の主力になっていたし、小早川家で研究されていた二形船──竜骨のある和船も増産が進んでいた。


 そんな革命期、しかも秋津に敵がいない状況にもかかわらず、二度目の宗教戦争は織田軍にまたもや大打撃を与えることになる。





 今度の相手は、耶蘇会(ジェズイット)だった。
 
 










 “天下統一”当時、秋津の耶蘇会には派閥抗争があった。


 耶蘇会は全世界をいくつもの管区にわけ、そのなかでも特に重要な、または人口のおおい地域に準管区、そうでない地域に布教区をわりあてていた。秋津は当初、東印度大管区の日本布教区だったが、本能寺の変ごろに準管区へ昇格した。
 初代の準管区長は、それまでの教区長の横滑りだった。
 記録されるところでは、名を方済各苛罵留。
 発音を翻字して、フランシスコ・カブラルともされる。



 カブラルの当て字がひどいことになっているが、これは彼にかんする悪評の原因にかぞえられている。
 今でもそうだが、こうした悪意ある当て字はこのころの秋津では珍しいどころの騒ぎではなく、そんな字を使われるほどの悪行を働いたのだろう、と見なされるようになったのだ。
 もっとも、あながち間違いではない。

 彼の下で京地区(という名前だが、四国と本州すべてを管轄する)布教長をつとめていた熱貴宇留岸によると、苛罵留時代の日本準管区は恐怖政治に近いものだったらしい。
 彼の意にそわぬ修道士や司祭らは残らずはじきだされ、彼と同じような差別論者ばかりで周囲がかためられた日本準管区、とくに彼の直轄する豊後地区は、ただの植民地と化していた。
 豊後以外の九州をうけもつ下地区も、似たりよったりの有様だ。



 彼は、耶蘇会総長の名代として秋津をおとずれた亜歴山徳魯范礼とも、するどく対立していた。
 理由は言うまでもない。
 范礼もまた、宇留岸と同じ意見をもっていたからだ。

 宇留岸は、天主教という真の教えを秋津に広めることで、ひとびとの魂を救うことができると考えていた。
 そのため、彼は京を走りまわる。
 邪教の神官ども(日記より。延暦寺の坊官か)と討論を活発におこない、彼らが搾取している貧民たち(清目など専属小売商のことか)に手をさしのべた。聖なる御言葉(天主聖書)をわかってもらうために、秋津人たちにむけた羅典語(ラテンご)の教室も開いたし、神学校も建てた。
 もちろん、自分から歩みよることも忘れない。
 彼は秋津人でも司祭に叙階することをためらわず、また自ら秋津の言葉を学んでいた。


 こうしたことを、苛罵留はいっさい禁止した。
 彼にとって、秋津人とは神の子羊ではなく悪魔の手下だった。
 当たり前だが、自分の部下たちにもそう命じている。

 もっとも、この反応だけを見て、彼を責めるのは間違いだ。
 当時の葡萄牙人、いや大秦人のほとんどは、そもそも泰東のひとびとを人間と思っていなかった。
 だから自分たちの説く御教えを、なんの疑問もいだかずに信じて当然、ついでに何がしかの物品を自分たちに貢いで当然、そういう認識が一般的だったといえる。

 ひとり耶蘇会だけが、この先入観を否定されていた。


 天竺はまだよかった。
 現実的な利益だけをもとめていても入信するものは多かったし、すでに天主教がある程度広まっていたので、彼らの教会まるごとの帰依が期待できた。
 問題は唐土と秋津だ。

 唐土にあっては、そもそも新しい宗教の入る余地がなかったうえ、しょせん南蛮人のたわ言としてまともに扱ってもらえなかった。
 秋津では一般住民の質問責めにあい、まずかれらが持っている常識の土台を崩すところから始めなければならなかった。


 そうした苦労に打ち勝つため、初代の方済各沙備依留は秋津適応論をかかげ、当地の信仰にそったかたちで布教を進めるよう命じていた。
 だが苛罵留は、これをあっさりと捨て、強圧的な布教を続けていったのだった。
 


 小田原の役が始まったころ、范礼は各地の耶蘇教会を見てまわったのち、苛罵留の罷免を決意して堺を出航し、瀬戸内で船とともに没した。
 結果、苛罵留は誰に咎められることもなく、“天下統一”まで自らの信ずる布教をすすめ、領主の大友義鎮が天主狂いとなり国がまっぷたつに割れた豊後をはじめとして、九州一円では反切支丹感情がひそかに高まっていた。





 そういった状況のなかで。



 いわゆる「血の池地獄の変」が、発生する。










 顕正講:
 法華宗系の新興宗教。日蓮の説く立正安国をもとめる。
 日本公民が残らず法華宗に改宗し、法華戒壇を政府が建立すべきとする


 善光会:
 白蓮宗系の新興宗教。一向宗の流れ。
 教団の会主だけが世界の真理を知っており、彼らに一切をゆだねるべきとする


 末日聖人教会:
 基督教系の新興宗教。いわゆる模留門(モルモン)


 東印度:
 呂宋や印度群島など、いわゆる三東諸国をさす


 熱貴宇留岸:
 翻字体はニェッキ・ソルディ・オルガンティノ。
 適応論者の耶蘇会士。天主聖書の翻訳に尽力。通称の「うるがんばてれん」で有名


 亜歴山徳魯范礼:
 翻字体はアレッサンドロ・ヴァリニャノ。
 適応論者の耶蘇会士。中国学の先駆


 方済各沙備依留:
 翻字体はフランシスコ・シャビエル。
 適応論者の耶蘇会創設者。日本に天主教をもたらした人物。
 古代基督教(秦景教)奉齋士との宗論で知られる









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 漢字一色にするとどうなるか見てみたかった。

2010年3月28日日曜日

習作その9 両方知ってる人なら一度はやった妄想

第一話シリーズ。
続きません。



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「しっかりおしっ!」

 耳元に響く、いろいろな感情をまぜこぜにした怒声。

「あんたは人を守るために、お給金もらってるんじゃないのかい?
 いま、何千、何万って人が困ってる。
 ここでがんばらないで、いつがんばるんだい!」



 ああ。
 かなわない。

 何十年たっても、この人は昔のまんまだ。
 そして死ぬときにも、誰にも何も言わないで、ぽっくり逝ってしまうんだろう。
 それはそれで、いい迷惑だというのに。


 空調すら止まり、パソコンの放熱で外よりさらに暑くなっている窓のない一室で、彼は汗をぬぐう手をとめて苦笑せざるを得なかった。

 時々いるのだ。
 まわりのことを考えてはいるが、のっぴきならない状況のときには、それらすべてをかなぐりすてて行動する人が。
 いい意味でも、悪い意味でも。



「そりゃ、アンタと良ちゃんじゃ、馬は合わないだろうさ。
 でも今は縄張りなんて関係ないじゃないか。あっちにはさっき、きつく言っておいてやったから!」



 そして、これだ。

 自分はともかく、いま“良ちゃん”と呼ばれた男はとうに還暦をすぎているのだが、そんなことは彼女には関係ないらしい。
 まあもっとも、たいていの人は彼女より若いのだが、

 しかしこの非常時に、わざわざ法を犯してまで回線に割り込まれては、



「そこまで言われちゃ、しかたない」



 と、言うしかないではないか。



「最初からそう言えばいいんだよ。
 自分が偉くなったと勘違いした悪ガキほど、始末が悪いものはないね」



 たとえ、叱責しか帰ってこないと分かっていても。



「相変わらず手厳しい。
 ですがね、私たちの仕事は、足より指を使った方が早いんですよ。
 お孫さんがこちらにいてくれればよかったんですが──
 いえ、これ以上は見苦しいので、このへんで」

「ああ、早くおし。
 老人の長電話につきあってる暇はないんだろ」

「それがそうでも。
 理一くんに劣るとはいえ、ウチの部下はそれなりに優秀ですし、

 なにより、あなたのお電話を無下にはできませんよ。





 ──よりによって、陣内先生のお出ましとくればね」






 






  ――西暦2015年7月 日本国 神奈川県 海老名市



 目覚めてからもたっぷり1分、手足が動こうとしなかった。



 よくない傾向だと、自分でもわかる。

 とはいえ、分かったからどうなるものでもない。
 夢──将来に対するそれではなく、寝る時の夢──というやつは、理性ではどうしようもない場合が多いのだ。

 ならば、受け入れるよりないではないか。


 そう。
 彼こと高橋時寛は、ここ数週間というもの、絶望的に夢見が悪いのだった。



 笑い事ではない。
 とくに彼の仕事と今の日本を考えたとき、どうみても大丈夫ではなかった。

 2年前に誰も得るものなく終わった“動乱”の後始末はいっこうにゴールがみえず、高橋の職場はつねに人手を欲している。
 とくに、一時占領を受けた沖縄と九州北部は、まず情報通信網から作り直さねばならないありさまだった。
 そんな状況で、サブチーフの彼が倒れてはたまらない。

 もっとも、チーフが倒れるよりはマシという言い方もある。
 そして、だからこそ彼は、きょう内閣府で行われるなんだかよくわからない会合に出席することになっていた。



 いや、まぁ。


 あいかわらず暑苦しい布団の中で、カーテンの隙間からさしこむ曙光に目を細めながら、高橋はつぶやいた。



 なんだかよくわからないのは、うちの職場も同じか。





 「いっこらせ」

 チームの後輩から「ジジくせっス」と直接的に表現されたかけ声とともに、高橋は起き上がった。
 直せといわれているが、もう癖なのでしかたない。

 いつも通り、押し入れから手探りで服を探しつつ、着替えを開始する。
 部屋に干してあったワイシャツとちょうど手元にあったネクタイを両手で引ったくり、スーツから消臭剤をとりはずして身につければ、外見だけは社会人のできあがりだ。
 これまたいつも通り、姿見の前にいった高橋は、そこで硬直した。



 姿見の真後ろにかけられた、アナログ式の時計。
 その短針は、はっきりと文字盤の「7」をさしていた。



 出勤時間を、すぎている。









 
 総務省は、2001年4月に発足した。

 その源流は、悪名高い内務省だ。
 戦後に分割をうけるが、2001年の省庁再編で生まれ変わり、総務省となる。

 2010年の政府縮小では、地方自治や情報通信などを扱っていたためか、奇跡的に部局廃止をまぬがれた。
 さらに東アジア動乱後の国民運動政権で行われた行政機関の大合併で、いわゆる“大内務省”が復活する。




 そして今、息を切らせて小田急ロマンスカーから走り出てきた高橋時寛は、

「お久しぶりです」
「へ?」

 その総務省の、情報通信担当政策統括官付き企画官であった。



「陣内さん?」
「ええ、高橋さんもですか」
「いや、“もですか”と言われても、何がなにやら」


 地下鉄構内といえど、暑いものは暑い。
 湿ったハンカチ右手にしゃべりながら、二人は国会議事堂前駅の改札を抜ける。


「高橋さん、情報通信対策会議に出席されるんでしょう?」
「そうですが、まさか陣内さんも?」
「ええ。内情に出向して以来ですが、机を並べるかもしれません」


 ホームでばったり出会って以来、なにか秘密を共有する相手のように話しかけてくる、色黒の男を少しだけ見上げながら、高橋は黙りこんだ。

 彼を見るたびに、いつも思う。


 無駄のない筋肉。健康的な日焼け。精悍な顔立ち。涼しげな目元。
 どこをとっても、いい男としか言いようがない。

 自衛隊の広報関係者がネタにしないのは、大いなる怠慢だ。



 陣内理一1等陸尉は、そういう男だった。





 ただ、ここに高橋個人の評価が加わると、事情が変わってくる。


「となると・・・OZ関係ですか?」


 いささかの用心深さをこめて、理一に訊ねる。
 それだけの必要がある相手に、必要があることを聞いていた。

「ああ、OZ関係の事務は総務省が握ってましたね」
「いえ、だからってわけじゃないですが」

 セクショナリスト扱いされて焦る高橋と、相変わらずにこやかに笑う理一。
 駅から上がる階段出口、地上からさすギラギラの朝日が似合う男だ。
 ああ、関係ないな。
 



 OZ。
 世界最大の会員制バーチャルネットワークである。



 アカウントごとのアバターから、ネットゲームまで。
 電子メールから、大手通信社の報道まで。
 アバターの衣装から、本物の高級マンションまで。

 インターネット上で操作・配信・売買できるものすべてがとびかうこの仮想空間は、同時にそれらすべてを妨害できる場でもあった。
 5年前の夏には米軍のAIにセキュリティ系をのっとられ、とばっちりで日本の小惑星探査衛星「あらわし」が墜落している。
 サンプル容器だけは守られ、反対派を落胆させたのが不幸中の幸いだ。

 あれからOZも過度のシステム統合はひかえているが、信頼は大きく失った。

 特に、トラブル続きのなか地球帰還までこぎつけながら、ミッション終了直前に「あらわし」を墜とされたJAXAと文部科学省の怒りは激しい。
 動乱時にGPSが使えず悲鳴をあげた防衛省や国土交通省とともに、日本独自の情報ネットワーク規格まで提案していた。
 ──もちろん、財務省とアメリカの反対でつぶれたが。



 しかし。


「今回は、別件のようです」


 五百年つづく名家出身の陸自幹部は、日光をさけるビル影でそれを否定した。


「・・・そいつはオオゴトだ」
「ええ」
 思わず、高橋の顔がゆがむ。


 自衛隊のご他聞にもれず、一般には知られていないが、理一も高橋と同じ境遇だった。
 つまり、所属をきけば明快な答えが返ってくるが、結局

 “なんだかよくわからない”

 部署で仕事をしているのだ。


 そして、彼がむかし高橋とともに内情──情報庁へ出向していた頃のままだとすると、その職務は「OZ対策」という一言につきる。
 さらに言えば、謎の部署にいる人間が他の省庁に出張ってきながら、開かれる会議の内容を知らないようなそぶりだ。
 これが演技でなければ、別の可能性が見えてくる。



 つまり、
 OZあるいは日本の情報通信網に関する事案で、
 総務省に任せるには重すぎ、
 かといって内閣府だけでは解決できない、

 そんなバカげた重大情報が、官邸に持ち込まれたのだろう。



「そういえば、今回の会議には外務省が噛んでいるとか」

 やっと考えがまとまったところで、また理一が口を開いた。
 彼がこんなにしゃべるのは珍しい。
 理一にしても、思うところがあるのだろうか。

「私も聞きました。
 ですが、OZ以外で外務省の出る幕というのも、おかしな話では」
「省レベルでの関与ではないでしょう。
 今回の議題についての専門家が、たまたま入省していたとか」
「まあ何にしろ、ここまで内容が秘密なのも珍しいですね」
「まったく」

 そうぼやけるまで、精神が回復していることに気づく。
 時間がたつにつれ厳しさをます暑さも、あまり気にならなくなっていた。

 隣を歩く理一に礼を言うべきか迷いつつ、ようやく気を落ち着けた高橋は、内閣府庁舎へと足を踏み入れた。










 “陣内先生”──陣内栄は、2010年7月31日に亡くなった。



 享年89歳。卒寿の誕生日を目前に控えた、大往生であった。

 突然の訃報に、驚いた人は少なくない。
 その前日には、OZセキュリティ乗っ取りで大混乱する公共情報網を立て直すため、関係各方面に“電話で”檄を飛ばしたばかりだったのだ。
 実際、彼女の誕生会兼葬儀に集まった人々の中には「一昨日電話をいただいたのに・・・」とこぼす面々もかなりいた。


 かくいう自分、内閣情報通信管理センター所長の山木満雄も、そのひとりだ。


 客観的に見てもまだ壮年と呼べる年齢だが、あの老人には勝てない。
 勝てなかった、ではない。
 自分がこれからどれだけ長生きしようと、ああはなれない確信があった。



 だが、彼女のような人材は今こそ必要なのだ。


 OZ事件で何もしなかった内閣が崩れたのはいいとしよう。
 しかし、その後の動乱で日本全体が右傾化し、無駄な世代交代が起きた。

 結果として、残ったのは新進気鋭といえば聞こえはいいものの、要するに場数を踏んでいない若者のみ。
 もちろん、山木の世代が政治の舞台に立てるのはいいことだが。


 くわえて、今のような状況になる。



 山木は、自分が座長のような立場にある会議の陣容を見て、ひそかにため息をついた。


「結局、何が始まるんだか」
「今の内閣は、言うとこと言わんとこ分けてるはずなんだがな」
「だいたいこの集まり、何について話すのかさっぱりだ」


 事前連絡のない、かなり失礼な形をとった召集とはいえ、何が話し合われるか程度は推測してもらわないと困るのだ。
 議事進行に不可欠な、そういったことすらできていない。
 今回の議題は、OZではないにしろ、かなり有名なのに。

 まあいい。
 あとで、政府が振興している個人情報端末にがんばってもらおう。
 その点については自信がある。
 情報漏洩を考えずに端末を使えるようにしたのは、自分たちなのだから。



 さて、そろそろ開会するか。
 肝はすわっている方だが、いいかげん総務省の若造の目つきが怖い。

 発表者の方も、用意が終わるようだ。確認しておこう。
 資料はそろったかね?
 プロジェクター準備いいか?
 ところで、その髪型はどうにか──いや、言うだけ無駄かな。


 では、始めよう。





「──ええ、本日進行を務めます、内調管理センターの山木と申します。
 今回、実務の皆様にお集まりいただいた理由は、大きくふたつになります。

 ひとつは、これは総務省管轄ですが、OZネットワーク。
 これがふたつめの問題とからんだ場合、関係各省が緊密に連携をとりあって対策を講ずる必要がありますことから、召集させていただきました。





 そして、もうひとつ。

 最近OZとの直接交流が確認された、
 デジタルワールド、およびデジタルモンスターへの抜本的対策です。





 ではまず、外務省国際情報交流室の八神より、報告があります。
 太一君、よろしく頼むよ」





 注:
 情報庁の通称。「内閣情報庁」の略から。
 情報庁は内閣府の外局で、内閣の政策にかんする国内外の情報を収集する機関。
 傘下に内閣緊急情報集約センター、内閣人工衛星情報センター、内閣情報通信管理センターがある。

 架空の機関。
 現存する内閣の情報機関については、「内閣情報調査室」を参照。









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 というわけで、SW&WGでした。
 妄想乙。以上。

2009年12月24日木曜日

習作番外 超限戦 冬至祭 (第一次黒版)

クリスマスうp。
12月25日修正。



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「ベイチーだ!」

「ベイチーだ!」



 ああ、うるせえよ。

 何日も前からさんざっぱら聞かされた単語だ。しかも結局、どんな意味かはさっぱり分からんときてる。
 冗談じゃない。

 児島広之は、ここ数ヶ月ですっかり癖になってしまった溜息を、またひとつ密かに落とした。

 手に持った盃には正体不明の果実酒が注がれているが、まだ乾杯の号がかかっていない以上は飲めもしない。
 目の前の円卓には海の珍味と思しき料理が並んでいるが、これも同じだ。


 どれだけ豪勢な料理屋酒を並べられたところで、こっちがその内容について知らなければ何とも言いようがないのだ。
 高麗族官人の接待で、ばかげた豪華さをほこる中華全席の片鱗を知ってしまった身としては(そのほとんどを口にしていないとしても)、多少珍しい品物が煮炊きされているからといって、心が動くわけでもない。

 だいたい目の前の皿、どれもこれも代用食じゃねえか。
 児島は毒づく。
 南海にも精進料理があると聞くが、目に入ってくる料理の内容と匂いが違いすぎていた。
 
 「娯楽としての食事」という概念をわかってはいるが、見た目より栄養を重視したい児島としては、この現状は耐えられない。眼前に広がる酒池肉林を、彼の鼻が容赦なく否定するのだ。
 ただの焼き豆腐と菜飯で、何を喜んでいるのか、と。



 もっとも、料理にまして耐えられない現状が、彼にはある。



 思い返せば、おそろしく波乱万丈な数ヶ月だった。
 彼にしてみれば、どうしてこうなったのか分からない。少なくともこの夏まで、彼は小さな集落の居民長をやっており、威張ることしかできない目ざわりな高麗人を相手に、倭族としてはかなり恵まれた貧窮生活を送っていた。


 それがどうだ。
 なんだかよくわからないうちに帝國の敵ときめつけられ、
 なんだかよくわからないうちに尽十方無碍光とかいう幻術を覚えさせられ、
 なんだかよくわからないうちに御神と名乗るおっさんの過激派に取りこまれ、
 なんだかよくわからないうちに海賊船ではるか南の島にたどりつき、
 そして今も、なんだかよくわからないうちに席など勧められている。


 何よりわからないのは、そんな自分が重要人物扱いされていることだ。

 今も海賊衆や彼の先触門徒(兄弟子)たちが忙しく給仕しているなかで、児島は言いようのない居心地の悪さを感じながら、またこっそり溜息を落とす。



 いったいなぜ、平々凡々なこの俺が。



 無碍光教の法主と。

 南海七十二島の総島主と。

 往還八幡の輔屋形と。





 顔を突き合わせて、酒を飲まねばならんのだ。





 






 そんな児島の心中を知ってか知らずか、当の“無碍光教の法主”が振りむく。

「どうしたの児島君、さっきから黙りこんで。気分悪い?」

 いいわけねえだろド畜生。
 八重山くんだりまで俺を連れてきやがって、一体どういうつもりだ。

 そう胸の中でどなりつけてから、ここ最近とみに落ちつきのない自分を無言のうちに叱咤し、それからようやく児島は御神に向きなおった。



 御神篤。

 児島を救った恩人であり、武術の師匠であり、盗賊団の頭目であり、狂信者どもの首領であり、そのうえ扶桑でもっとも派手に活動している反帝組織「無碍光教団」の第十一世法主でもある。
 要約すれば、児島の人生をねじまげた張本人だ。


 とはいえ、さすがに児島もいきなり不平はぶつけない。
 なにせ同じ机に顔をならべるチビの総島主や海賊の輔屋形は、基本的に血の気が多い。なお悪いことに、残った御神にさえ勝てる気がしない。
 ここは、高麗人相手に命がけで培った丁寧語の出番だ。

「いえ、こうしてお招きいただいたことはまことに有難いのですが・・・」

 しかし、それすら彼には許されない。



「ずいぶん用心深い御仁だな」



 声が小さい。うえに高い。発音が聞き取りにくい。歌鳥かおまえは。
 そう、児島は苛々にまかせて口走りたかった。

 だが、できなかった。


 小さな正方形の机に、一辺ひとりずつ四人が面している。
 児島を基準として、右辺には法主、左辺には輔屋形。
 もちろん、声の主はどちらでもない。

 正面に座っている、というより腰かけている、いやむしろ乗っかっている、とにかく体格の小ささがもろに印象へと反映された肉食獣が、のびた前髪に覆われて部屋の明かりは届かないはずの両目から、児島を椅子ごと串刺しにせんばかりの勢いで眼光を放っていた。
 性別だけは分かるのが救いだろう。彼女のいかにも南国らしい腰巻と羽織は、体格に比べていささか無理がある胸と腰とくに前者によって、内側から押しあげられ張りつめている。

 せめて怯えた振りだけはしないようにと、全身の筋肉を硬直させた児島は、だがそこで今ひとつの疑問を持たざるを得ない。

 この目の前にいる南海七十二島総島主なるガキが、なぜ自分を呼んだのか、という点だ。


「お前はもう無言同盟の正式な一員だ。臆することはない」

 児島の疑問も知らず、総島主の毛納塔莉は口ぶりだけ楽しそうに続ける。
 だったらまずその目をどうにかしろ。俺を焼き殺したいのか。

 頭のどこかでそうくってかかりつつ、児島はどうにか言葉をひねりだす。

「まだ慣れておりませんで」

 それどころか、無言同盟というものがあることすら今知ったばかりだ。
 自分が彼女やほかの二人とともに着席している理由すらわからないのに、謎は増えてゆくばかりである。



「なあ大刀自さんよう。今の、ひょっとして笑うとこか?」

 ますます思考の深みにはまってゆく児島を引きずりだしたのは、さきほどからにやついていた、左に座る男だった。

 刀自というのは、なにかの集団の女当主に敬意をはらった呼び方だ。そのわりに口調ではまったく敬意を払っていないこの男は、往還八幡という海賊団の輔屋形、つまり二の親方だった。

 彼については、児島もよく知らない。
 ただ南海七十二島とは長年の交流があり、海に生きる仲間の打上(祝祭、めでたい式典)ということで、この「ベイチー」に駆けつけたそうだ。

 で、結局「ベイチー」ってなんなんだ。



「何の話だ、加地」

 総島主は、かなり気分を害したらしい。
 祝いの席で、この男は何をしてくれるのだ。いいぞもっとやれ。

「なんもかんもあるけ? 目は口ほどにものを言い、つう倭族の諺、あんたも聞いたことあるやろ」

「加地くん、君までそんなことを言い出す」

「ええやんええやん。お堅い坊さんは黙っとき」

 一方、あの眼光を保持したまま睨みつけられた加地というらしい輔屋形は、まったく動じていない。ついでに、御神にも動じていない。

 諺が間違っているのはともかく、自分が言いたかったことを全面的に代弁してくれたこの男に、児島は早くも一方的な親近感をおぼえつつ、習慣的な用心深さでそれを振り払っていた。
 ひょっとしてこの海賊も、むかし眼光の被害にあっていたのだろうか。


 さて、いつのまにか加地の方にむいていた顔を正面に戻すと、そこには衝撃的な光景があった。

「いやいやもう遅いから」

 容赦のない加地の寸評にも負けず、総島主のガキは表情をなんとか崩そうと奮闘していた。

 まばたきをくり返し、眉間を揉んだあと親指で鼻の上を軽くたたいて、最後に何度かかぶりを振ったあと、正面に向き直る。

「すまなかった。これでいいか?」

 つまり児島に。



 おい、評価俺かよ。

 意外すぎる展開の連続にあわてた児島は、とっさに御神へ目をそらした。
 失礼だとは思ったが、もうそんなことは言っていられない。ここ五年ほど、女性と目を合わせる機会がまったくなかったのだ。うろたえもする。


 さて、このとき彼が総島主を女性扱いしたということは、彼女の対策に効果があった証明なのだが、本人も児島も気づいていない。

 もちろん総島主がどのような表情をしたのか、われわれに知るすべはない。
 しかしその場に座っていた御神篤は、のちに無碍光御文章とよばれるようになる手記のなかで、

「御刀自殿之御顔 棟梁面縁可憐成娘子之夫辺惣変事為
 此乙女之御侍者 真六ヶ敷御役目成哉

 と、略記法の候文にしてもくだけた調子で綴っている。
 少なくとも、総島主が眼光を消し、柔和あるいはそれ以上の顔つきになったのは間違いないだろう。



 しかし、意外な展開は続く。
 むしろ、まさかの展開といっていい。

 御神が児島から、目をそらしたのである。



「ク、クックック」

 左から押し殺した笑い声が聞こえる。
 これはもうだめだと観念して正面に直ると、総島主のガキは年齢相応な呆れ顔になっていた。

「・・・もういい」

「そうそう、平和が一番」


 この小波乱を引き起こした張本人のはずの加地は、今にもケタケタと笑いだしそうな表情だ。
 何がおかしいのか、御神もただにこやかに笑うばかり。
 当の児島にいたっては、わけがわからず結局また自分の世界に引きこもろうとしている。

 周囲の喧騒も減りつつあるし、そろそろ潮時か。





 突然立ち上がった納塔莉の椅子音に、児島はびっくりして顔を上げた。
 こいつはやることなすこと、前触れがないから困る。

「では、祭主の私から、このたびのベイチーについて、客人がたにいささかの説明を加えたい」

 あいかわらず児島をにらみつけたまま、納塔莉は宣言した。





 ベイチーとは、盃吃と書く。

 これだけではなんのことか分からないが、もともとは外来語にそれらしい字を当てたもので、原義は宴会や集会をあらわしているという。
 そんな一般名詞が固有名詞になったのは、南海七十二島でもっとも重要な集会がなにかと問われたとき、誰でもただひとつの答えを導き出すからに他ならない。



 冬至祭。



 冬至とは、いうまでもなく一年で太陽がもっとも低く、昼がもっとも短い日だ。
 逆に言うと、冬至をすぎればだんだん太陽は高くまで上がってゆくし、昼も少しずつだが長くなってゆく。

 つまり冬至祭とは、一度おとろえ死んだ動植物や太陽神が、また春の訪れとともに復活していくことを祝う祭なのだ。

 これだけでも祝い事には十分だが、さらに続きがある。


 冬至の日は、あたりまえだが年によって変動する。

 だが南海七十二島の大部分、とくに他加禄族や宿霧族などでは、実際の冬至がいつかに関係なく、公暦の十二月二五日に盛大な打上をおこなう。
 彼らに共通する宗教の教祖(救世主)がこの世界に降臨したのが、その日だかららしい。


 海の上では人の行き来も比較的自由だ。少なくとも帝國の移動制限はない。

 特に摩洛族などの交易民族が島々の情報を伝えてゆくにつれ、天文を読んでその年の冬至を決めるよりも効率的とされる“救世主の日”推進派は強くなり、南海七十二島の冬至祭は十二月二五日で統一されていった。


 以上のような経緯から、ベイチーには冬至祭、主祭、聖誕祭、降誕会などの別称がある。

 本来はベイチーよりもさらに規模が大きいパスカ(救世主復活祭)という祭があったのだが、「長命ならともかく、一度死んだのちに人間の肉体と精神が復活するなどありえない」として帝國圏に禁令が出たため、南海七十二島が勢力を取り戻したころにはすたれてしまっていた。





「というわけで、冬至の過ぎこしとともに我ら南海七十二島と無言同盟の結束がいよいよ強まり、また一刻も早く帝國を打倒する鉄槌へと昇華せんことを祈って──」

「あんさ、まだ続くの?」


 せいいっぱい格調高くしてみせた観がぬぐえない納塔莉の演説も終盤にさしかかったところで、また加地が茶々を入れた。

 また例の眼光が彼に刺さるが、ふくれっつらでは迫力もなにもない。
 期せずして、あまり広くない会場に笑いの波が生まれた。


 おうおう顔赤い顔赤い。さすがに怒ったか。
 表情を崩さないように苦労して嗤いながら、それでも場の空気が崩れないことに児島は驚いている。

 いや、単にこの冬至祭とやらに自分が呼ばれた理由をまだわかっていない現実から、逃げているだけかもしれないが。


「まあ、理由はそのうち分かるよ」

 涙目の総島主に顔を向けたまま、ぽつりと御神がつぶやいた。
 それが児島に向けられた言葉と本人が気づくまで、数瞬の時が流れる。


「法主、それはいったい」

「とりあえず、今は料理を楽しもう。僕も昔そうしたから」


 そう、言うだけ言いすてて御神は杯を高く掲げ、もう勢いだけで突き進むことにしたらしい納塔莉の号令に従った。



 つまり、誰よりも声をはりあげて





「恭賀聖誕(メリー・クリスマス)!」





 と、異教の神を讃えたのである。





 
 御刀自(総島主)殿のお顔が、棟梁としての顔から可憐な少女の顔へ、たちまちのうちに変わった。
 このお嬢さんにお仕え申し上げるのは、まことに困難な仕事であることだ。








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 顔見せでした。以上。